日記と短歌
by papiko
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思い出す代わりに私の大好きなその笑い声また聞かせてね
 私と子どもたちと、それから私の両親とともに、比較的近隣に住む母方の祖父母のところへ行きました。祖母は認知症が進んでいて施設にいるので、最初に祖父と会い、一緒にファミレスで昼食を食べてから、祖母の施設を訪問しました。祖父も少し認知症が始まっているそうなのですが、まだ普通に会話もできるし、動きがスローになったことと声が小さくなったこと以外、昔とほとんど変わりません。私がどの孫かを思い出すまでに少し時間がかかったり、私が結婚していることを忘れていたり、そんな感じでたまにちょっと驚くこともあったけれど、思っていたほどの寂しさは感じませんでした。
 基本的に人見知りをしない長女は、祖父の前でも元気いっぱいで、歌をうたったり、覚えたばかりの足し算を披露したりして、祖父はそのたび、子どもの頃私がはしゃいだときにしたのと同じ、ふかふかした笑い声をたて、長女の心を盛り上げました。次女はじっと祖父を見つめて固まっていましたが、人見知り全開で大泣きした前回のようなことはなく、そのうちに慣れて、普段通りのワガママな次女になって、次女のワガママっぷりにもやはり、祖父はふかふか笑いました。
 祖母の施設に行く前に、少しだけ港に寄って、魚釣りをしている人のそばを散歩しました。人懐っこい祖父は、同い年ぐらいのおじいさんに、「釣れますかな」と話しかけて、それからもしばらく世間話で盛り上がっていました。祖父と一緒に、食べ物屋さん以外の場所へ行ったのは、とても久しぶりで、懐かしい感じがしました。子どもの頃は、祖父母の家へ遊びにいくたび、いろいろなところを連れて行ってくれて、おもちゃを買ってくれて、写真をたくさん撮ってくれて、だから祖父母の家に行くのが大好きでした。今でも、祖父母の住居につながっている階段を見ると、これから起こるであろう楽しいことへの期待で胸を膨らませながらその階段をだだだだっと駆け上ったときの気持ちが蘇ってきて、無条件にワクワクします。

 祖母の施設は和やかな雰囲気の場所でしたが、それでもやはり、ふだんの暮らしとはまったく違う空気が漂っていて、緊張しました。子どもたちはたぶん、私以上にそれを敏感に感じ取って、緊張していたようです。祖母はちょうどお昼寝中だったけれど、職員の方に起こしてもらい、私たちを見ると「あらいらっしゃい」と言いました。もうずっと前から、私のことは分からなくなっていて、母や父のことも分かっているのかいないのか微妙なところですが、寝起きにもかかわらず、ご機嫌で迎え入れてくれました。
 職員さんが祖母をベッドから車椅子に移してくれようとするとき、祖母は急に「いたーい!」とか「いやあー!」と子どもみたいな大声で言ったので、子どもに返るって本当なんだなあと、これには少し驚きました。しかし、かと思えば、祖父を見て「おとうさん(祖父のこと。昔からそう呼ぶ)、これえ」と、祖父のひげが伸びているのを気にして眉をしかめたり、子どもたちを指さして「おとうさん、うちに、このこら一緒に連れていったらええが」と、昔の口調そのままに提案したりなど、急に大人の顔に戻ったりもして、不思議でした。どうやら、祖父に対して話すときは、すっと大人の妻になるようです。私や子どもたちが誰なのかを認識していなくても、子どもたちを見て「かわええなあ、かわええ子じゃなあ」としきりに可愛がってくれて、長女のほっぺたを触ったり、次女のいたずらを見て声を立てて笑ったりしました。
 子どもたちは、ふだんお年寄りと関わることが少ないので、さすがの長女もここでは萎縮して、ずっと黙っていましたが、決して暗い表情ではなく、緊張気味ながらもずっと微笑して祖母のそばにいて、そんな長女を頼もしく思いました。次女は、前回玄関で大泣きして入れなかったのだけれど、今回は私にしがみついてなんとか入り、泣かずに対面して、最後は握手もできました。
 認知症になって私を忘れてしまった祖母と初めて対面したときは、自分の一部が削れたように悲しくて寂しくて涙がにじんだけれど、今はもう、悲しくありません。初めて会ったような顔で私を見る祖母に「孫の○○だよ、これはひ孫の○○と○○だよ、こんにちは」といいながら、祖母のぶんまで、自分自身が何かを再認識しているような、新鮮な気持ちになれます。悲しいことのはずなのに、もうちっとも悲しくないのは、祖母が少しも悲しそうではないからかもしれません。以前よりずっと小さくなった体で、母に髪の毛を撫でられながら、子どものようなつぶらな瞳でみんなを見つめ、祖父に対してだけは、キリッと急に妻の顔になる、そんな祖母は、決して、不幸に見えませんでした。大人になったり可愛らしい子どもになったりする祖母を見ていて、ちょうど先日読んだ『魔女の宅急便その2』に出てきた、トンボのこんな言葉を思い出しました。
「たぶん、あのおばあちゃん、自分の時間をもってるんだよ、自分だけの・・・・・・。ぼく、いくつもつくってみてさ、みんなそれぞれ、自分の時間をもってるんだって思ったんだ。いもはいもの時間、ありはありの時間。人は、かってに自分の時間でいろんなこと考えるから、へんに思ったりするんだよ」
 今の祖母もまさに、そんな感じです。祖母の内側にある、祖母にしか分からない時間のなかを生きていて、それはおそらく、とても穏やかな世界なのだろうということが、祖母の表情から分かりました。私たちは日々、進んでいく一方の時間軸をなぞって生きているけれど、祖母は、そんな外側の時間軸とは無関係な、祖母の内側だけにある、水晶玉のようにまんまるいかたちをした、人生の欠片が集まってできた時間の結晶のなかを、ぐるりふわふわぐるりふわふわ漂いながら生きているのではないかと思います。私たちは今日、そんな祖母のまるい時間に、ほんの少し触れることができたのかな。帰り際、次女と一緒に祖母と握手をしたとき、祖母の手は赤ちゃんみたいに柔らかく温かくて、驚いたのと同時に、ほんわか優しい気持ちになりました。
 きっともう、今日私たちに会ったことを祖母は忘れているし、祖父もはっきりとは覚えていないのかもしれません。だけど、それを寂しいことだとは、少しも思いません。会っていたそのときには、祖父も祖母も笑っていて、その笑い声は、昔と変わらなかったし、忘れられてしまっても、私や子どもたちの中に、祖父母の血が流れていることに変わりはないのだと思えば、寂しくなどありません。それに、たとえいろいろなことを忘れてしまっていても、この世であたたかい手をして生きてくれている、今日それを感じられただけで、自分の命があたたまるのを感じました。行く前は、正直ちょっと億劫だったのだけれど、会いに行けてよかったです。
 

by papiko-gokko | 2017-06-25 21:06 | Diary
あの人が知らない人と住んでいる住所で漢字を三つ覚える
 昨日の夜中、次女が急に耳を痛がって泣き出し、朝までずっと寝たり起きて泣いたりを繰り返していたので、朝一で慌てて小児科へ駆け込みました。ちょうど耳鼻科が休みだったためかかりつけの小児科で診てもらったのですが、丁寧に診ていただいて、軽い中耳炎になっていると言われ、抗生物質を出してもらいました。まだ自分でうまく鼻をかめないため、鼻吸いもしてもらって、かなりすっきりしたのではないかと思います(吸ってもらっている最中は大泣きだったけれど)。抗生物質が効いたのか、午後には痛みも治まったらしく、元気に過ごしていて、ほっとしました。長女は中耳炎になったことがなく、初めてのことだったので焦りました。

 今日は一家で久しぶりに、岡山に住んでいる母方の祖父に会いに行きました。祖父や周りの人の都合が分からないので行くタイミングが掴めず、比較的近くに住んでいながらなかなか会いにいけていなかったのですが、今日母が岡山に来たので、祖父と母の昼食に合流するかたちで、ファミレスに集合しました。下の妹も来ていて、長女は大喜びでした。しかし次女は人見知りが炸裂して、体をこわばらせ私にしがみついて大泣きし、一度ファミレスの外に出て落ち着かせねばなりませんでした。私たちはすでに昼食を食べていたので、ポテトとデザートを頼みました。長女は、いつも食べてみたいと言っていた念願のパフェを食べて、幸せそうでした。最初は大泣きしていた次女も、そのうち慣れて、夫の頼んだポテトを勢いよく食べていました。みんなの食事代は、祖父がおごってくれました。
 祖父は前回会ったときよりもさらに少し痩せて皺も増えて、会話のレスポンスが遅くなったなあと感じたけれど、それでもこちらの言ったことに対する受け答えはしっかりしていて、笑うときの感じなど、昔のおじいちゃんと変わりませんでした。もっと積極的に会話をすればいいと思うのだけれど、何を話したらいいのか分からなくて、せっかく会ったのに、私は笑っているのが精一杯でした。父方の祖父に対しても、私はいつもそうでした。人と話すのが苦手だということは、あらゆる場面で本当にたくさんの後悔を生むなあ・・・と思います。でもこればっかりは、私の性分だから、どうしようもない。せめて、会話以外の部分で、思いを伝えていく努力をします。別れ際、私が「それじゃあ、おじいちゃん、よいお年を」と言うと、祖父は最後に、「楽しかった。会いに来てくれて、ありがとう。」と言ってくれました。自分の不甲斐なさを感じたけれど、長女と次女に祖父を会わせたかったし、会いに行ってよかったです。

 長女が冬休みに入り、明日はいよいよクリスマスイブです。先ほど夫と一緒に、サンタさんのプレゼントをおそろいの包装袋に入れました。楽しみでたまりません。
by papiko-gokko | 2016-12-24 01:51 | Diary
つやつやと遺影の祖父は微笑んでほれ小遣いと言い出しそうだ
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 島根に帰省してきました。朝早く家を出たので、10時過ぎには実家に到着し、お昼前に母と出雲大社へ参拝しました。ここのところずっと参拝していなかったのですが、なんだか今年は運の悪いことがあれこれあったので、大社さんにお参りしなきゃだねと話していたのでした。その日は、山陰の冬にしては珍しいくらい雲一つない快晴で、大社は参拝客で賑わっていました。
 長女がおみくじを引きたいというので引かせてみると、「善良なしつけはまず家庭から始まるべし」と書かれていて、私も夫も、ひゃあーとなりました。わがままな子どもたちをどうしたものかと日々頭を悩ませているところに、ガツンときました。出雲の神様には、すべてお見通しのようです。全体的にあまり今年は運が良くないですという内容だったので、境内にくくりつけて帰りました。こういうものはやはり、1年の初めに引かなければ駄目だなぁ。もう今年は終わりそうですが、家庭教育の見直しをしていこう。
 出雲大社に参拝したあとは、正門前に並ぶ観光客向けのお店を見て周り、おそば屋さんでお昼を食べて、長女は勾玉のキーホルダーを、次女はハートまんじゅうなるものも買ってもらいました。どのお店にも縁結び関係のものがたくさん売られていて、今風の若い女の子たちの姿が多く見られました。地元が観光で賑わっていると、嬉しくなります。
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 お店の並ぶ道を少しいくと大社駅に着き、そにには最古級という古い電車が展示されていて、車内に乗ることもできるので、ちょっとだけ乗って遊びました。動かない電車の窓から光が降り注ぎ、物語の中に迷い込んだような不思議な空間でした。運転席にも自由に行くことができ、子どもたちが夢中で触っていました。
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 出雲大社とその周辺をほどほどに満喫したあとは、大社の比較的ちかくの、長女がいつも行きたがる大きな公園で子どもを思い切り遊ばせてから家に帰り、子どもたちを母に託して、私と夫だけ買い物に出かけました。ふたりだけで買い物をするのは久しぶりだったけれど、子どものことが気になって、なかなか身も心ものんびりとはいかず、結局、ショッピングモールで夫の靴下と、ブックオフで絵本を1冊だけ買って帰りました。
 夜には父も帰ってきて、すき焼きとお酒で盛り上がりました。夫はお酒が入ると父と仲良くしゃべれる人になるので、ほっとします。父は私や妹の夫と親しくなりたい気持ちが強い人なので、父と夫が仲良くしてくれていると、ほっとします。

 翌日は、午後から雨の予報だったので、早めに近所の公園へ遊びに行き、午後は2時過ぎまで家でのんびり過ごしてから帰りました。公園では、父と夫が、なんと人生初のキャッチボールをしました。父はスポーツをするのも見るのも大好きな人ですが、夫は基本的にスポーツをしない人で、観戦もさほど熱心なほうでないので、そのふたりがキャッチボールをする日がくるとは思いませんでした。どうやら昨日の夜お酒を飲んでいて野球の話になり、キャッチボールをしようじゃないかとなったようです。私もちょっとだけ父とやりましたが、ボールが飛んでくるのが恐くて、必死で手を出していたら、結果的にすべてキャッチすることができました。父と遊ぶなんて、とても久々のことで、気恥ずしい。3姉妹で、息子とキャッチボールという夢が叶わなかった父なので、夫と投げ合えて、嬉しかっただろうと思います。

 帰り際、仏壇の祖父に挨拶しようと思って、長女と一緒に仏壇へ行ったら、そこに私と次女の帽子が置いてあり、「おじいちゃんが忘れ物教えてくれたんだねー」と笑いながら手を合わせました。そして手を合わせながら、祖父の生きているとき、祖父の見ているところで、こんなふうにもっとたくさん、長女と手を合わせておけばよかったなぁと思いました。そうすれば祖父は、自分が仏さんになっても、孫やひ孫が手を合わせてくれるだろうと、その姿を想像しながら逝くことができただろうに、と。
 祖父は毎朝、どんな日も、仏壇にお水を供えてお線香をあげることを、怠りませんでした。晩年、祖父の手元があぶなっかしくなってきて、ロウソクとお線香を本物でなくLED電球で光るだけのものに変えたときも、やっぱり本物のロウソクを使って、お線香をあげずにはいられなかったようで、本物を使っていたのは、線香の香りでバレバレでした。長女が1歳半か2歳くらいのころ、祖父が長女に、「のんのんさん、のんのんさん」と、仏さんに向かって手を合わせることを教えていたことを、長女と仏壇に座るたび思い出します。そのとき私は、そんなこと2歳児に教えても分からんだろうにまったくと、苦笑いで見ていました。だけど、あのときもっと、一緒に手を合わせ、まじめに教わればよかったと、今すごく思います。長女が拝む姿を、もっともっと、祖父に見せておけばよかったというのは、祖父に関するいくつもの後悔のなかでも、大きいことの一つです。
 生まれたころから実家には仏壇があったけれど、祖父が亡くなるまでずっと、仏壇に入っていたは私の生まれるずっと前に亡くなったご先祖様だけだったので、仏壇に対して何を思えばいいのかいまいち分からず、それよりは同じ床の間にある神棚のほうがまだなんとなく概念が分かりやすいくらいで、仏壇も神棚も、拝むのはお盆とお正月くらいのものでした。大人になってからは、帰省するたび拝むようにしていたけれど、それも習慣的なものでしかなく、なぜお墓とは別に仏壇というものがあるのか、深く考えたこともありませんでした。
 けれども、今は分かります。家に帰るとまず、仏壇の前に座りたいと思うくらい、今はとても、その意味が分かります。仏壇の前に座ると、会いたい気持ちや話しかけたい気持ちが、ふうっとほどかれて、そしてごく自然に、「おじいちゃん、ただいまー。帰ってきたよー。」と、仏壇の写真に向かって、語りかけいる自分がいました。お線香をあげて、その香りの漂うなかで、ぽつりぽつり話しかけていると、本当に、祖父のいるところまで、自分のぼやけた声が届く気がしました。そして、それまでとは比べものにならないくらい、いつまでもそこに座っていたくて、みんなが立ち上がってからも、なかなか動けませんでした。
 実家に帰ると、祖父の不在が身に染みて、みんなでリビングにいるとき、別の部屋で少しでも何か物音がすると、これまでの癖で、おじいちゃんかな、と思ってしまって、そう思った次の瞬間に、ああそうだったおじいちゃんはもういないんだったと、気づかなければいけないのが、たまらなく寂しくて。だから、仏壇の存在を、とてもありがたく感じます。この家からおじいちゃんはいなくなってしまったけれど、そのかわり家には仏壇があって、仏壇の前に座れば話しかけられるんだと思うと、救われます。仏壇には、お茶の時間に入れたコーヒー(私たち孫があげたマグカップ入り)と、カップ酒・・・と思いきや、カップ酒の形をしたユニークなロウソク(母が見つけて買ったらしい)と、それからおまんじゅうなどがお供えしてありました。そういうものの一つひとつが、祖父の生前を思い起こさせます。10時と3時きっかりに必ずコーヒーを飲んだ祖父。子どもの頃から、数え切れないくらい、一緒にお茶をしました。祖父も祖母もみんなでお茶を飲むのが好きな人だったので、子どもの頃も、大人になってからも帰省するたび、あーもーめんどうくさいなあと思いながら下に降りて、一緒に3時のお茶を飲みました。面倒なことも多い祖父だったけれど、死んでしまうということは、もう、めんどうくさいなあと思うことができないことで、めんどうくさくなくなることは、こんなに寂しいことなのかと、仏壇に供えられたコーヒーカップを眺めて思います。

 祖父のおかげで帽子を忘れることもなく、無事に家に帰ることができ、多少の疲れを引きずりつつ、みんな日常を過ごしています。私は、出雲大社のおみくじの言葉を、ことあるごとに思い出しながら、家庭からか・・・家庭からなんだな・・・と、日頃の自分の育児について反省しています。とくに次女が最近ワガママすぎるので、家庭でしっかりしつけていかなければと思います。なんだか今回は、神様と仏様の存在を、強く感じた帰省になりました。神様、仏様、がんばりますので、どうか見守っていてください。
by papiko-gokko | 2016-12-06 23:48
怒濤の2週間
 8月末から量の多い仕事が立て続けに来て、この2週間、毎日キーボードを打ち続けていました。その2週間のあいだに、祖父母参観日があって母が泊まったり、その日に合わせて上の妹と姪っ子も遊びにきて泊まったり、その滞在中に妹がぎっくり腰になって近くの整骨院へ行って応急処置をしてもらったり、下の妹もうちに来てみんなで腰を労りつつワイワイ焼き肉をしたり、また別の日にははじめて長女とふたりでミュージカルを観劇したりして、なにがなんだか分からなくなるくらい、盛りだくさんでした。

 9月で2歳になったばかりの姪っ子は、日々大切に大切に育てられて育ち、まだなんの憂いも知らない純粋無垢な表情をした、ほわほわふくふくした子で、長女と次女のあとをてこてこついて歩いて、きゃふきゃふ楽しそうに踊って、たまに「ママ」とか「まってー」とかちょっとした言葉を小さな声でしゃべり、可愛くてたまりませんでした。次女とは9ヵ月しか違わないのですが、やはり次女は日々長女に刺激を受けているだけあって、同じ月齢のころ、もうすでに動きも声の出し方も激しかった気がします。長女が2歳になりたてのころは、ちょうど姪っ子と同じのような感じで、まだ大きな声の出し方も分からなくて、ほわほわふくふくしていたような。
 私も、それから長女も姪っ子にメロメロで、つい姪っ子を可愛がってしまって、ふだん末っ子で可愛がられ慣れている次女はなんだか調子が狂ったらしく、ふと次女のほうを見ると、なんとなくつまらなそうに寝転んでいたり、じっとこちらを観察していたりして、そのたび、いかんいかんと思い、あわてて次女を可愛がりました。長女が姪っ子に、ビーズの首飾りを作ってあげているときは、分かりやすくヤキモチを焼いて、「次女ちゃんにも、ちゅくってって、いってるでちょう!」と、何度も言っていました。
 ヤキモチを焼きつつも、次女なりに、可愛がりたいとかおねえさんらしくしたいという思いもあったらしく、長女の真似をして絵を描いてプレゼントしてみたり、ちょっといばったような口調で、「これは、そうじゃないの、こうしゅるんでちゅ!」と、自分のおもちゃの遊び方を教えたりなんかしていました。たまに、姪っ子が持っているおもちゃを、次女がばっと取ってしまう場面もあったのですが、姪っ子にはまだ、おもちゃを奪われたという発想がないらしく、ぽわんとした顔で、次女が自分の手からとったおもちゃで何をするのかを、観察していました。姪っ子がもう少し大きくなったら、こうはいかないのだろうな。そのころには次女が、もうちょっとおねえさんらしくできるようになるかな。
 姪っ子が帰った数日後、私と長女が姪っ子の話をしていると、それを聞いていた次女が、「なんでみんな、姪っ子ちゃんに、やさしくするの?」と、不思議そうに聞いてきました。ほとんど自分と変わらない大きさの姪っ子が、自分よりも赤ちゃんらしく扱われ、みんなに優しく語りかけられていたことが、純粋に不思議だったのでしょう。長女と次女、そして姪っ子という関係が、これからどうなっていくのか、とてもとても楽しみです。きっとこの3人の関係で、それぞれが、人間関係の基礎となる、さまざまな感情を味わい、学んでいくのだろうな。
 
 長女との初めての観劇は、なかなか楽しいものでした。『白雪姫』のミュージカルです。会場の前に、チケットを握りしめて並ぶ感覚からしてひさしぶりで、長女とつないでいた手が汗ばむほど、わくわくドキドキしました。市民会館のような大きな劇場に足を踏み入れたこと自体が初めてだった長女は、ホールに入るとまず、舞台と向かい合ってずらっと並ぶ大量の椅子に、「わあ・・」と息をのんでいました。私も、開演を待つ人たちでだんだんと席が埋まっていくざわざわした雰囲気に、ますます胸が高鳴りました。長女とふたりして席でそわそわしていると、孫を連れてきていた隣の席の人が私と長女に「あめちゃんあげるわ」と、ミルクキャンディをくれて、それでちょっとだけ、緊張がほぐれました。まもなくブーと開演5分前のブザーがなり、その音が私は、小さいころから好きなような嫌いなような、とにかくいてもたってもいられない気持ちになるので、自分が舞台に立つわけでもないのに、アドレナリンが出て、汗ばむ手であたふたと携帯の電源を切ったりしました。
 客席のライトが落ち、緞帳があがると、もうそこは、光に満ちた別世界。15分ほどの休憩をはさんで2時間、たっぷり楽しみました。プロの方々なのでやはり歌も演技もすばらしくて、引き込まれました。長女も真剣に見ていて、継母の女王が出てくるたびビクッとして私にしがみついていました。白雪姫がリンゴを食べて死んでしまい、小人たちがむせび泣く場面では、隣の子が涙をぬぐっていました。最後は拍手喝采のカーテンコールで、気持ちよさそうだなぁ・・・一度味わったらやめられないだろうなぁ・・・と思いながら見ていました。カーテンコール、なんだか分からないけれども大好きで、鳥肌が立ちます。最高に眩しく華やかな夢の終わり方。
 幕が下りて客席の明かりがつくと、長女は舞台に目を向けたまま「さっきもらった、あめ・・ちょうだい・・・」とだけ言って、とくに感想は言わず、しばらく歩いてから感想を聞いてみると、長女まだぼんやりした顔をして「・・・かわいこわかった」と一言だけ言いました。白雪姫の可憐さと、悪い魔女の怖さが、同じくらい強く印象に残ったようです。15分休憩の時にも、開演前に買ってやったパンフレットに、パパに教えることを忘れないようにメモしとくと言って、「パパ こわかたよ。かみなりのおとがした」と、書き込んでいました。赤ちゃんのころから大きな音がきらいな長女にとって、カミナリの音とともに現れる悪役は、かなりの恐怖だったに違いありません。「お母さんは、大臣(魔女の家来)の人が気に入ったよ」と私の感想を述べると、「え、大臣はわるものなのに、どうして。へんなの」と驚かれました。長女は白雪姫が一番好きだったようです。
 初めての観劇は、しっかりと心に刻まれたようで、毎日パンフレットを眺めて、たまにぽつんぽつんと、感想を述べたり、質問をしてきたりします。「狩人はどうして、殺そうとしたのにやめたの?」「白雪姫は、どうして動物と仲良しなの?」など、振り返っていろいろ考えています。パンフレットの値段は1000円で、高額ではないけれども決して安くもない値段なので、買おうかどうか迷ったのですが、長女はぜったいに見終わったあと何度も見返すだろうと思ったので買いました。実際、毎日熱心に眺めているので、買って本当によかったです。またぜひ、観に行きたいです。私は、めったにない長女とふたりだけの時間というのも嬉しかったのですが、長女は、「今度はパパと次女ちゃんとも一緒がいい」と言っています。今度は何を観に行けるだろう。子どもと観劇ができるようになったなんて、すばらしい!今回は、長女の背が低いのを考慮して、かなり前のほうで観たのですが、長女が2階席のほうに行って見たがっていたので、今度は高いところの席をとってみようと思います。

 2週間、睡眠も削ってわりとぼろぼろで仕事をがんばったので、夫が自分にご褒美を買いなよと言ってくれて、一度図書館で借りて以来ずっと欲しかった『ビートルズ全詩集 』を、ついに注文しました。楽しみで楽しみで、浮き足立ちます。この2週間も、ビートルズに助けられていました。専門用語連発でぼそぼそしゃべる人たちの会話を必死で聞き取る作業をして耳がくたくたになったあと、控えめな音でビートルズを流すと、無音でいるよりもずっと、耳と心が休まるのです。分からない異国の言葉に身を任せ、分かりやすい甘い英単語だけ気まぐれに口ずさんでみたりして、かっこいい歌声と美しいハーモニーに酔いしれるひととき、こわばっていたあらゆる筋肉が緩みます。これからは、詩集を眺めながら聴く楽しみも増えるのだと思うと、幸せで頬も緩んできます。
 ビートルズの曲、どれもこれも好きで、ランキング付けできないけれど、今の時点で、歌詞が一番好きなのは、『In My Life』です。大好きです。運命の人に出会うって、こういうことだよなぁ、最愛の人の傍らでそっと振り返る過去の思い出って、こんな感じだよなぁと、聴くたびに感じ入ります。「In my life I love you more」という言葉、すてきだなぁ。
by papiko-gokko | 2016-09-16 23:28 | Diary
秋風がふいに吹くからもう二度と会えないことに気づいてしまう
 夏休みが終わります。長女とふたりで、あたふた明日の準備をしました。コップ袋が見つからなくてどうしようかと思いましたが、なんとか見つかって、無事、準備は完璧に整いました。
 ここ数日、急に涼しい風が吹き始めて、夏の終わり特有の寂しさにとらわれながら、洗濯物を取り込みます。今年、その感覚がいつも以上に強いのは、この夏に新盆を迎えた祖父のことが、頭をかすめるからかもしれません。夏のあいだは、なんとなくまだ、魂みたいなものがそのあたりを漂っているような気がしていたけれど、お盆が過ぎて、ふいに涼しい風が吹き抜けていくと、いよいよ本当に本格的に、祖父がどこにもいなくなってしまった感じがして、なんでもない瞬間にうっかり涙腺が緩みかけたりして、深く息を吸い込むことでしか、自分の時間を進められなくなります。
 遺品整理をしたとき、祖父の日常的に使っていた引き出しから虫眼鏡が出てきて、ちょうど長女が虫眼鏡を欲しがっていたので、形見にもらって帰りました。自分が子どもの頃、祖父が「か、どげなっちょーかいな」とかなんとかぼやきながら使っていたのを覚えているので、それなりに長く使っていたものだと思います。長女も次女も、日々その虫眼鏡をあちこち持ち歩いて遊び、だから毎日あちこちに転がっています。「片付けなさい」とか「大事にせんと割れてしまうよ」とか注意しつつ、その虫眼鏡を手に取るたび、ああおじいちゃんと話がしたいなぁと苦しくなって、また深く息を吸い込みます。「おじいちゃんにもらった虫眼鏡、長女も次女も、喜んで使っとるよー」という、たったそれだけのことが、もう伝えられない。会えないし、電話もかけられないし、手紙を書いても届かない。人が死ぬということが、こんなにも、どこにもいなくなることなのだと、私はこれまで頭で分かっていたつもりだったけれど、まったく知りませんでした。大事な人には伝えたいことを伝えなければ気が済まない性格の私にとって、これはなかなかすんなり消化できる問題ではなく、こうして日記に書いています。日記を書いたら、なぜだか少し、やるせなさが薄れました。
 私たち家族が1年半ほど一緒に住んだことで、祖父は幸せだっただろうか。むしろ、世帯の違う家族が一つ屋根の下にいるせいで、孤独を深めてはいなかっただろうか。毎晩お風呂上がりに長女と交わす「おやすみなさい」のタッチを、祖父はこよなく愛してくれていたけれど、私は育児に精一杯で、とくに後半は次女を妊娠していたのもあって、祖父のことにまであまり気が回らず、イライラしがちで、きっとあんまり、優しい孫じゃなかったな。お世話上手な上の妹みたいに湿布を貼ってあげたりしなかったし、人懐っこい下の妹みたいに、冗談ではげた頭をぺしぺし叩いて祖父に小突かれ笑い合ったりなんかもしなかった。へらへら笑って頷くばかりの私は、たぶん一番、扱いづらい孫でした。大事な家に、思い切り灯油をこぼして家じゅうを臭くしてしまったこともあったし。あれは、もっときちんと、謝るべきだったなぁ。
 出雲から岡山へ引っ越す前日、祖父のところへ挨拶にいったら、「ほんに、世話んなりました」と、深々と頭を下げられて、胸が痛んだのを思い出します。祖父にとってどうだったのか、今となってはもう分からないけれど、私は1年半、あのとき祖父と暮らせてよかったなと、すごく思っています。長女の幼い記憶にも、祖父の存在がほんの少しは残るであろうことが、嬉しいです。次女にはきっと、長女が話して聞かせることでしょう。長女から聞く祖父の話は、私から聞く話より、ずっと真実味があって、次女の心にも刻まれることでしょう。
by papiko-gokko | 2016-08-31 22:34 | Diary
一週間の帰省と遺品整理
 長女の夏休みが始まって、一週間、出雲の実家に帰っていました。行きは、岡山に来ていた両親の車に私と子どもたちで乗せてもらい、帰りは夫に迎えに来てもらうという初めての試みで、ひさびさにたっぷり実家で過ごしました。今回長く帰った第一の目的は、子どもたちの夏休みの思い出を作ること、第二の目的は、母に子どもたちの面倒を見てもらって子どもと距離を少し置き、私が長い夏休みを乗り切るための英気を養うこと、それからもう一つは、祖父の遺品整理を手伝うことです。

 第一の目的、夏休みの思い出作りは、大成功でした。事前に母が庭用のプールを買ってくれていたので、毎日それに入って大喜びで遊んだし、何度かショッピングモールに行って有料の遊び場で遊ばせてもらったし、新しいおもちゃや本も買ってもらったし、それに長女は母(ばあば)にべったりで、毎晩、私でなく母のベッドで眠り、朝には犬の散歩について行っていました。ウナギや桃など美味しいものもたくさん食べさせてもらったし、夫が来た日にはみんなで海に行き、長女だけ水着を着て初めて海に肩までつかりました。夜には、私や妹が小さい頃に着ていた浴衣を子どもたちに着せて、手持ち花火を楽しみました。思うぞんぶん遊んで、いつもなら聞いてもらえないような願いをたくさん叶えてもらって、長女も次女も、最初から最後まで、ずっと楽しそうでした。
 両親、とくに母がはりきってくれたおかげで、第二の目的のほうも、かなり達成できたかなと思います。親に気を遣って疲れた部分もどうしてもあったけれど、それでもやはり、普段の生活では離れることのできない子どもと距離を置いて過ごせたのは、ありがたいことでした。子どもに対して腹を立てずに過ごすことができて、冷静な目で、自分の子どもの性格はこんなふうなのだな・・・と、いいところも悪いところも、おもしろいところも問題点も、発見することができました。

 三つ目の目的、遺品整理は、行く前から絶対やろうとはりきっていたので、精一杯がんばりました。両親は忙しくてなかなか大変そうだし、それに私はお葬式でちゃんと泣けなかったから、遺品整理を手伝うことで、改めて、祖父と対話がしたいという強い思いもあり、できるところは私が自分の手で、やりたかったのです。子どもたちがプールで遊んいるあいだや、母が見てくれているあいだにひたすら整理し、祖父が一日の大半を過ごしていた居間の部屋を、2日間かけてほとんど片付けることができました。もう捨ててもいいだろうというものはどんどんゴミ袋に入れ、思い入れのありそうなものなどこれは遺品かなーと思えるものは、遺品候補のものを集めたカゴに入れていきました。携帯電話やら病院やら水道光熱費の請求書や領収書をたくさん捨てました。もう二度と電話代もかからない、水道も電気もつかわない、病院へも行かない、それが死ぬということなんだな・・寂しいな・・と思いながら、捨てました。
 祖父の引き出し関係の中にとにかくたくさんあったのは、祖父が定年後から病気になるまで生業にしていた鮎釣りと猟の道具で、それは、父が定年後に跡を継いでやるかもしれないと言っていたので捨てずにとっておくことになり、あちこちにしまってあったものを集めたら段ボール2個分にもなりました。私が子どもの頃、まだまだ体格ががっちりとして元気の漲っていた祖父が、プロ野球中継を眺めお酒を飲みつつ鮎を捕るための網を編んでいた姿はとてもよく覚えているので、ひさしぶりにそれらの道具を見て、時間が引き戻されるような気持ちがしました。子どものころからずっと祖父の部屋にあった棚からは、開いて物を出すたびに、当時と変わらない匂いが立ちのぼってきました。いつも祖父の傍らに置いてあった灰皿付き小物入れの引き出しを整理していたときには、一番奥から、私が7歳のころに描いた、やけに写実的な祖父の絵と、おそらく同じ日に描いたのであろう当時4歳だった上の妹の、祖母の絵が出てきて、気まぐれで祖父の絵を描いた7歳のその日から、その絵がずっとその引き出しの中にあったのかと思うと、時空が歪むような感覚を覚えました。

 片付けていて一番興味深かったのは祖父と祖母それぞれの日記帳でした。祖母のものはノートで数冊、祖父のものは1年ごとの手帳で、1979年から2012年までどっさりありました。祖母が倒れてもう二度と意識が戻らないと分かったとき、祖父が祖母の日記を読んで、日記相手にケンカをしていたことを思い出しながら、ぱらぱら、二人の日記をめくりました。祖母の日記は、朝コーヒーを飲んだこと、お腹の調子が悪かったこと、クリーニングを出しにいったこと、孫の吹奏楽を聴きにいったこと、天気のことなどが、時系列で細かく書かれていて、たまに感想や決意も書いてあったりして、その日の祖母のことが、口調や表情まで目に浮かんできました。一方祖父のほうは、日付ごとに区切られている手帳の少ないスペースに、その日の主な出来事だけが、ほぼ毎日書き込まれていました。それでもわずかな文面と走り書きの文字から、その日の祖父がどんなふうだったのか思い浮かんでくるのだから、日記というのは不思議です。
 祖父の83年4月3日の日付には「○○(私の父)の長女誕生」と、私のことが書かれ、私が進学で家を出てからは帰省するたびそのことが記録され、2012年の7月には、私たち一家が一時的に出雲に引っ越し住み始めたことも、ちゃんと書かれていました。しかし、2012年の後半あたりから、だんだんと、記録が毎日でなくなって、文字数も減ってきて、2013年の日記はついに見当たらず、そのあたりから、祖父の生きる気力が減退していったのだろうか、私たちが一緒に住んでいたころの祖父は、何を思っていたのだろうかと、しばし考え込みました。
 祖母が倒れ意識をなくして入院してからの日記には、しばらく毎日のように「病院へ行く。異状なし。」と書き込まれていて、その「異状なし」という言葉が悲しくて、あやうく泣きそうになりました。医学的診断でもう二度と意識が戻ることはないとはっきり分かっていても、病院へ行って昨日と変わっているところがないかどうか目で見て確認し、日記に「異状なし」と日々記していた祖父の心情を思うと、異状なしという言葉の、事務的な響きが、余計に辛くて、やりきれない気持ちになりました。
 祖母の日記にも、祖父の日記にも、私たちや両親の名前が、たくさん出てきて、自分の名前が出てくるたび、語りかけられているような気持ちになり、温かさと寂しさで、胸が締め付けられました。私を大事に思い共に生きてくれていた人がこの世からいなくなったんだということを、名前が出てくるたび、思い知らされ、大声で泣きたくなりました。それでいて、あまりの祖父らしさ、祖母らしさが垣間見える文章には、思わずくすっと笑ったりもして、日記を読んでいるあいだ、私の心は、祖父と祖母の人生そのものに、抱かれているように感じられました。日記ってなんのために、だれのために、どうして書くのだろうというのは、こうして日々ブログを書きながら考え続けているテーマだけれど、祖父と祖母の日記に、その大きなヒントが、隠されている気がします。その答えに、たどり着きそうで、だけどまだ、考えている途中です。ただ一つはっきり分かったことは、日記を書くことに、意味はある、ということ。これ以上の読み物はない、ということです。

 気の済むまで片付けて、祖父母の持ち物と対話して、日記の文面に触れて、心に浮かんできたのは、たくさんの、どうしようもない後悔でした。一緒に住んでいたときもっともっと親切にすればよかった、もっと長女や次女と触れ合わせたらよかった、耳のちゃんと聞こえていたうちに、もっといろんなことをしゃべっておけばよかった、もっと贈り物をすればよかったと、お葬式のときには、なるべく考えないようにしていた後悔が、頭の痛くなるほどわき上がってきました。そして、人が死ぬということの重さを知りました。からっぽになるはずないと思っていた場所がからっぽになったような、呆然とした思いを、まだ引きずっています。
 
 私よりずっとまだ引きずっているであろう父は、表面的には元気そうで、定年間近でありながらまだ海外出張もあったりして忙しく過ごしながらも、庭で自家製の梅干しをおいしく作ることに命をかけている様子でした。しかし、出雲で過ごす最後の日、みんなで花火をしたあと、祖父の祭壇が飾られている床の間でわいわい賑やかに写真を撮ったりしながら、「おじいちゃん、大騒ぎでびっくりしとるね」と言い合っていると、父が祭壇の祖父の写真に向かって「おやじ、嬉しいよなあ、おおはいごん(大騒ぎ)が、大好きだったもんな」と語りかけ、その、聞いたことないほど優しくて心細げな声を聞いたとき、ああ、父はまだ、ぜんぜん、祖父の死のそばにいて、死を過去のものにできてなんかいないんだ、ということが、痛いほど分かりました。いつも、父は祖父に対して、ちょっとつっけんどんなくらいのしゃべり方だったのに、祭壇に話しかけるその声は、いまにも泣き出しそうにも聞こえました。
 土日は高校野球の県大会を熱心に見て、涙ぐみながら校歌を聴いていた父。地元愛、母校愛のものすごく強い父や、一生を通して出雲で過ごした祖父の人生のことを思うと、地元を愛し、信頼し、ずっと地元で生きていけるのならば、それってすごく幸せなことだよなぁと思えてきます。そして、私にはどうしてそれができないのだろうかと、なんだか心許なくなります。20代のころは、いろいろなところへ住んでいろいろな場所を知って視野を広げてこそと人生は楽しいと思っていたようなところがあるけれど、人生の充実と、住んだ場所は、関係ないなぁと、今は思います。

 どうにも、とりとめのない日記になりました。まとまらないので、終わりにします。まだまだ長い夏休み、明日は何をして過ごそう。
by papiko-gokko | 2016-07-24 22:40 | Diary
遠くまで一緒におでかけしたかった置いてけぼりの帽子と鞄
 週末、祖父の四十九日法要のため、一泊二日で実家に帰省しました。夫は仕事で行けなかったため、行きは妹の車に同乗させてもらい、帰りは子供たちと3人電車に乗って帰りました。昨日まで疲れを引きずっていましたが、今日になってようやく元気回復です。
 祖父の死から1ヶ月以上が過ぎ、もう祖父のいない世界に心が馴染んできていたと思っていたけれど、いざ実家に帰って、まだそのままにしてある祖父の部屋を見ると、そこに祖父が座っていないことや、祖父の「おかえり」がないことが、不思議で仕方ないのでした。祖父のいつもいた部屋に私たち一家の荷物を置いたため、衣類を取りに行くときなどちょくちょく祖父の部屋に入り、そのたび頭の芯がぼんやりしました。祖父の座っていた大きな椅子に座ってみると、テレビのところにずらずらと飾ってある孫やひ孫の写真がよく見えて、いつもこうやって眺めていたのかなぁと思いながら、自分や自分の存在を無条件に受け入れ愛してくれる人が一人減った寂しさを、噛みしめました。一番古い写真は、下の妹の七五三のときの写真で、祖父はこの写真が大好きでした。襖のそばの帽子掛けには、帽子とカバンもかかっていて、この帽子とカバンを使う人はもうここに帰ってこないのだということが、やっぱりどうにも、不思議でした。使いかけのハンドクリームとか、湿布とか、なにげない祖父の持ち物ひとつひとつ、目にするたび手に取るたびに、「置いてけぼり」という言葉が浮かんで、どんどん部屋に充満していきました。
 四十九日法要は通夜と同じく自宅で行われ、お坊さんがお経を読むあいだ、次女はぐずったので、上の妹と1歳の姪っ子と一緒に別の部屋で過ごしました。長女はほとんど参加しました。前回のように取り乱すことはなく、淡々と参加していました。その後、お墓に移動してお線香をあげ、お正月に行ったのと同じ、祖父が好きだった旅館で会食をしました。お正月やお盆などこの旅館で会食するとき、これまで、父が単身赴任でいなかったり、私や妹や従姉妹が遠くに住んでいていなかったりしたことはあったけれど、祖父がいなかったことは一度もなかったので、やっぱり、ここでも祖父の不在を強く感じました旅館の女将さんから「大将、今日は賑やかでいいね」と声をかけられて、まんざらでもなさそうに頷く祖父が座っていそうで、いまこの瞬間くらい、ここに祖父がいればいいのにと、単純にそう思いました。
 旅館についたころには、前半の儀式でもう疲れてきていた子供たちがだれはじめ、とくに長女がわがままで、私も苛立ってつい厳しく叱ってしまい、父の挨拶が終わる直前に長女が大声で泣き出すというハプニングがあったり、ある程度お腹がふくれると長女も次女もじっとしていられなくなってきたので、しかたなく部屋の外へ出て、しばらく旅館を探険して過ごしたりしました。もう5歳の長女には、親戚の人のまえでぐらい、ちょっとかっこつけるくらいの気持ちでちゃんとしていてほしいと思うのに、ぜんぜんかっこつけてくれないので、情けなくて、くたびれました。
 旅館の窓からは、新緑の山を背景に大きな川の流れる美しい景色がよく見えて、私がぼーっとそれを見ていたら、従姉妹が隣にきて、「すごいね。なつかしい。」と言いました。「そうだね、ずっと見てきた景色だよねえ・・・」と応えながら、なんとなく、私はこの会話をずっと忘れないだろうと思いました。2つ年下のこの従姉妹とも、子どもの頃からよく、一緒にこの旅館に来ていました。お正月だったりお盆だったりの集まりはいつもこの旅館でわいわい食事をし、大人たちより早く食べ終わった私と妹と従姉妹は、座敷をころげまわったり、旅館を探険したりして、時間をつぶしたものでした。私よりずっと背も高くて、喪服姿でいつにも増して大人っぽい従姉妹が、なつかしいと、おそらく私と同じようなことを思い出しながら、一緒に景色を眺めてくれたことが、温かくて、慰められました。大人になってからは子どもの頃ほど関わらなくなってしまっていたけれど、生まれたときからおじいちゃんに愛してもらった、同じ孫だものな。
 無事に四十九日が終わり、両親は、とてもほっとしたようです。まだ新盆があるけれど、ひとまず、四十九日までしなければならなかったあれこれからは解放されて、肩の荷が下りたのではないかと思います。前回の葬儀のときといい、今回といい、さまざまな打ち合わせと準備をして、動き回って、たくさんの人に気を遣って、父も母も、かなり大変そうでした。こんなによくしてもらって、祖父は喜んでいることでしょう。満足げに日本酒をすする祖父の横顔が浮かんできます。

 
by papiko-gokko | 2016-06-07 11:10 | Diary
静寂をまとい貴方はいなくなり明るい月に声を求める
 今年の桜が散り終えたころ、島根に住む父方の祖父が、他界しました。85歳でした。最後に会ったのは3月末、入院先の病院で、お正月よりさらに痩せてはいたものの、談話室までしっかり自分の足で歩き、耳が遠くて会話はほとんどできなかったけれど、「またおーきゃん(大きく)なっただないか」と長女をなでたり、次女にじっと見つめられて「おらを、こわがっちょーわ」笑ったりして、最後は、一緒に暮らしていたころお風呂上がりに毎日そうしていたように、長女とタッチしてから笑顔でお別れしました。
 だから、まさかそんなに早く逝ってしまうなんて思わなかったのですが、肺と肝臓をガンにむしばまれた体は、2週間前のめまいを境に、みるみる体力をなくし、起き上がれなくなり、ささやき声しかでなくなりました。それでも、最期まで意識はあり、死の前日には、母の手を握って「ありがとう」と泣いたそうです。ちょうど海外出張中だった父も、危篤の知らせを聞いて死の2日前に急きょ帰国し、意識の確かな祖父と会って話すことができました。その死はとても穏やかなもので、死の数十分前に叔母にお昼ご飯のおかゆを食べさせてもらい、父や叔母や母と会話をしてから、そのほんの少しあと、苦しむことなく、静かに息を引き取ったそうです。
 死の知らせを受けて、しばらく頭の中が真っ白になり、それから次に思ったのが、長女にどう伝えようということでした。1歳半から3歳直前まで、長女は1年半、祖父と一つ屋根の下で暮らしたので、別れを知れば悲しがるだろうと思ったからです。しかし、伝えないわけにもいかないので、なんとか自分なりに考えて、「おじいちゃん(本当は長女にとってひいおじいちゃんだけど、おじいちゃんと呼んでいる)がね、もうたくさんたくさん生きたから、天国へ行くことになったんだよ。だから、そのお別れをしに、島根にいくことになったよ」と、長女に伝えました。すると長女は、目に涙をいっぱい溜めながら何度か頷き、「おじいちゃんの、写真やビデオ、いっぱいとってある?」と聞きました。それから、寝るまでずっとずっと、おじいちゃんはこれからどうなるのかということを、質問してきました。そして、「星になるという人もいるし、風になるという人もいるし、いろんな人がいるけど、おじいちゃんは、いつもほとけさまを拝んでたから、おじいちゃんは、ぴかぴかの、きれいなほとけさまになるんじゃないかな。それで、長女ちゃんのことを、守ってくれるんじゃないかな」と、そんなことを説明したら、「そうかあ」と、ようやく、寝てくれました。

 通夜は自宅でやるということで、帰省してすぐ、表の部屋に寝かされていた祖父の遺体と対面しました。死んだ人を見たのは、これが初めてのことでした。よくドラマで、眠っているような、とか、いまにも目をひらきそうな、という表現が出てくるけれど、祖父の顔は、ぜんぜんそんなことなくて、生前によく見かけた、テレビを見ながらうたた寝しているときの祖父の感じとは、やっぱりまるで違っていて、人生を生ききった、生き終えた、そんな顔をしていました。そして、元気なころあんなに大きな声だった祖父が、これまで見たどんなものより、静寂の塊のような存在になっていました。遺体というのは、もっと怖いものかと思っていたけれど、少しも怖くはなく、だけどやっぱりそれは、私の知っている祖父ではもうなくなっていて、だから、そばに飾られていた、元気なころのにこやかに映っている遺影を見たとき、なんだかほっとしました。それは、下の妹の成人式のとき、孫3人と祖父とでとった写真で、最高にいい表情をしていました。
 本当は長女には、遺体と対面させないつもりだったのですが、その場の流れで対面することになり、長女はやはり、異様な雰囲気に言葉を失っていました。でも、ちゃんとお線香をあげて、手を合わせることができました。そのあと2階にあがって、しばらく平気そうな顔で遊んだのちに、どこかに足をぶつけたのをきっかけにして泣き出し、「おじいちゃんと、お別れしないんだもん」と、ひとしきりわんわん泣いて、そのとき初めて、私も少し泣きました。
 ほどなくして通夜が始まり、それからはもう、段取り通りに動いて、忙しくて、緊張して、あっという間だったような、長かったような。子供たちは夫に見てもらっていて通夜にはほとんど参加しませんでしたが、棺にお花を手向けるときだけ来て、参加しました。そのときにはもう長女は泣かないで、真剣な顔で、祖父に向かって長いあいだ手をふっていました。上の妹も、下の妹も、父も母も叔母も、たくさん泣いていました。父は泣きながら、しきりに祖父の体をさすっていました。私は、まだ目の前で行われていることに心がついていかなくて、すべての流れを変に客観的に見てしまって、ちゃんと泣かないまま終わりました。私が泣いたら長女がますます動揺するだろうという懸念もあったし、長女として父と母の役割を手伝わなければと必死で気を張っていたし、それに、85年しっかり生き抜いた祖父の死を、自分のなかで、できるかぎり、悲しいものにしたくないという思いも、少なからずありました。
 夜9時すぎには通夜とその後の会食が終わり、実家には親戚の方々が泊まっていて自分たちが泊まれる場所はなかったので、近くのホテルに宿泊しました。これが子供たちにはちょうどいい気分転換になったようで、心配していた長女の夜泣きなどもなく、ホテルをひとしきり楽しんだあと、楽しそうに眠りにつきました。私にとってそうであったのと同じように、長女にとっても、祖父との対面は、悲しいものではあったけれど、怖いものではなかったのだなと、安心しました。その日の夜は、頭の中がぐるぐるして、ほとんど眠れませんでした。

 翌日は朝から出棺で、その後火葬場へ移動し、そこで一人一人、生身の祖父との最後のお別れをしました。私も手を合わせながら、小さな声で「ばいばい」と言いました。お別れを終えた棺は、とてもシステマティックな感じで、機械に乗せられエレベーターのような扉の向こうへウィーンと消えていき、その感じがとても近未来的で、これなら長女も怖くなかろうと、安心しました。妹たちは泣いていました。本当に妹たちは、涙が涸れてしまうんじゃないかと思うほど、泣いていました。二人ともよく、おじいちゃんのこてこての出雲弁の真似なんかして、笑っていたもんな。
 1時間半ほどしてから、収骨があり、長女に収骨はさすがにショッキングだろうと思い、夫に見てもらって、私だけが参加しました。死の一週間前まで自力で歩き、ポータブルトイレを頑なに拒絶し、早く歩きすぎて危ないと看護師さんに注意されるほどの祖父なだけあって、そのお骨は、とても立派なものでした。母が「おじいちゃん、こんなになっちゃったねえ」と泣き、妹たちも泣いていました。私は、あれはどのへんだろうかと、祖父の骨格を思い出しながら見ていました。そして、昔あんなに大きかったおじいちゃんだったのになぁ、儚いなぁ・・・と、思いながら拾いました。拾いながら、「おじいちゃん、おつかれさま」という言葉が、自然と口から出てきました。
 収骨のあとは、慌ただしく葬儀場へ向かい、簡単な打ち合わせをして、しばらく待機してから、葬儀が始まりました。花々で美しく彩られた祭壇のある葬儀には、通夜のような生々しさはなく、それゆえに、祖父はもうとうとう、本当にこの世にいなくなったんだということが、実感されてきました。しめやかなメロディとともに、祖父の人生が語られ、妹たちのすすり泣きがまた聞こえました。
 それからしばらくは、お坊さんのお経で、長いお経を聞きながら、祖父の遺影をぼんやり眺めていたら、なんだか、ふいに気が緩んで、ぽろんぽろんと、涙がこぼれました。何を言っているのか分からないお経の中盤でいきなり自分が泣くとは思いませんでしたが、やっと泣くことができて、なんだか少し、心の奥が楽になったのを感じました。どんなに悲しいものにしたくなくても、いくら十分に生きたとしても、やっぱり、おじいちゃんが死んだことは悲しいものなのだということを、そのときやっと、受け入れることができたように思います。遺影のころの元気なおじいちゃんが、たまらなく懐かしく、会いたくなりました。
 次女がぐずったので夫と子供たちはほとんど葬儀に出られませんでしたが、最後にはまた戻ってきて、長女もお焼香をしました。お経のことを、「おじいちゃんが、りっぱな仏さまになるための、じゅもんみたいなものだよ」と教えると、熱心に聞いていました。
 葬儀が終わり、そのあとはまたてんやわんやで慌ただしく納骨になり、祖父の遺骨は、お墓に入りました。先に帰っていた長女に戒名を教えてあげて、「おじいちゃんね、かっこいい名前の、仏さまになったから、これから長女のこと、いっぱい守ってくれるからね」と言うと、長女は「ふうん!」と、真剣な顔で、力強く頷きました。

 夫も長女もそれぞれ仕事と幼稚園があるので、葬儀のあったその日の夕方には、車に乗って、岡山に戻りました。車の中から、大きなまんまるい月が見えて、子どもの頃によく祖父が、私や妹たちがご飯を残さず食べたりお片付けをしたり、歌を上手に歌ったときなどに、「まるだ、こぎゃん、おーきゃんおおまるだ!」と、手でマルを作って褒めてくれたことを思い出しました。それで妹たちに、『空に、おじいちゃんからの、おーきゃんまるが出とるよ』と、思わずメールを送りました。
 晩年は痩せて、耳も遠くなった祖父でしたが、私のよく知っている祖父は、がっちりとした体つきで、川で鮎を釣り、山で猪を撃ち、酒とタバコを愛し、みんなに囲まれて飲むのが大好きで、浅黒く焼けた太い手足が自慢の人でした。晩年、痩せてからは、腕時計やLサイズの服がぶかぶかになったのを嘆いていたものです。声が大きく、目立ちたがり屋で自己中心的で、それでいて気弱で几帳面なところもあったりして、困ったところも多い人だったけれど、不思議と憎めない性格で、孫にはいつも優しくて、面白いおじいちゃんでした。長女が生まれてからは、長女のこともすごく可愛がってくれました。小さい頃、お風呂で私や妹の首を洗ってくれるときに、いつも『上を向いて歩こう』を歌って私たちに上を向かせたことを、いまだに、子どもたちの首を洗うとき、しょっちゅう思い出します。孫から見て、祖父の人生は、とてもいい生涯だったと思います。一緒に暮らしていたときには、腹の立つこともあったけれど、大好きな、自慢のおじいちゃんでした。寂しいです。さようならおじいちゃん。安らかに。
by papiko-gokko | 2016-04-22 22:40 | Diary
もうすぐでたぶん完成してしまう君の星座を瞼に宿す
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 元日から私の実家、出雲に帰省して、今日のお昼過ぎに帰ってきました。くたくたです。
 出雲では、両親と、上の妹一家と、下の妹と、それから今年が最後のお正月になる可能性が高い祖父を交えて、子どもの頃にみんなでよく行っていた思い出の料亭で会食をし、にぎやかなお正月を過ごしました。現在入院していて、2日間特別に外泊許可をもらった祖父は、やはり病でかなり痩せていたけれど、気持ちだけでも元気でいようとしているのか、声はむしろ入院前よりも張りがあるくらいでした。耳がすっかり遠くなっていて、会話はほとんどできなかったけれど、長女の絵を褒めたり、次女とボールなげ遊びをしたり、人見知り真っ盛りの姪っ子に泣かれたりしながら、満足そうに目を細めていました。
 そんなふうに一見元気そうに見える祖父がもうすぐいなくなるのかと思うと、悲しいというよりも不思議で、ぼんやりした気持ちになりました。余命を宣告されたからといって、人の性格はそうそう変わるものではないらしく、祖父は良くも悪くも相変わらずで、だけど、なんだかこれまでのように、祖父の悪い部分に対して腹を立てたり、逆に良い部分を愛おしく感じたり、そういった個人的な感情はもう湧いてこず、良いも悪いもなく、ただただ、祖父という人間の全体像を、全神経で捉えようとしている自分がいました。
 それはちょうど星空を眺めているようで、遠い昔の思い出や、つい最近の出来事が、それぞれの強さでこちらに向かって光を放ち、一等星級の光から六等星級の光まで、ぜんぶぜんぶが瞼の裏に広がって、私が見てきた祖父という人間が、星座のように浮かび上がってくるのでした。もうすぐで完成してしまう、瞼の裏のこの星座を、私はこれから、だれにどうして語ろうか。
 祖父が病院へもどるとき、車の窓をあけて祖父と長い握手を交わした長女は、何かを感じ取ったのか、「またお見舞いに行きたい」と、泣きそうな声で言いました。これから病状がどうなるか分からないし、またあたたかくなったら、お見舞いにいけるうちに、いっておきたいです。
 祖父が病院へ戻った翌日も、両親と下の妹と私たち一家と上の妹一家とで、わいわいわやわや過ごしました。自分の実家は、夫の実家よりも、人に対しても土地に対しても思うところがいろいろとありすぎるぶん、ある意味ものすごく疲れます。今回も、あれこれ気を揉んでへとへとになりました。だけど、どんなにへとへとになっても、また帰りたい、また帰ろうという思いは、帰るたびにあたらしく更新され続けていくから、やっぱり実家と実家に集う人々は、私にとって、かけがえのない存在です。

 そして今日、1月4日は、次女の誕生日なのです。2歳になったのです。しかし今日は、長旅でどうにもくたびれてしまって、夫と一緒に制作中の誕生日絵本(今年は布絵本)も今日までに間に合わなかったので、明日までに完成させて、明日お祝いをする予定です。だから次女の成長記録や、お誕生日のことについては、次の日記でまた、腰を据えてじっくり書きたいです。

 そんなこんなで、慌ただしく迎えた2016年。あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。2016年の抱負は、旅の疲れがとれてから考えることにします。
by papiko-gokko | 2016-01-04 21:23 | Diary
そりゃきみはもう随分な年だけどいなくなることないんじゃないか
 週の初め、子供たちと一緒に、インフルエンザの予防接種をうちに行きました。周りの意見を聞くと、受けるべきという人もいれば受けなくてよいという人もいて、非常に悩みましたが、長女が幼稚園からもらってくる可能性も高いし、それに今年は年末年始の休暇で両方の実家を渡り歩くことになったので、少しでも感染のリスクを減らしたくて、受けることに決めました。私と長女と次女、3人受けるとかなり痛い出費になりますが、背に腹はかえられません。予防接種に行く直前、体温計で子供たちの体温を測ったところで、長女は何かを察し「どうして・・・どうして体温を測るの・・・」と、消え入りそうな声で質問してきました。そこで私もつい必要以上に神妙な口調で「これから、注射を、受けに行くのです・・・」と言ってしまい、長女がごくりとつばを飲んだのが聞こえました。
 しかし、さすがはもうすぐ5歳になるお姉ちゃん。泣いて取り乱したりするようなことはありませんでした。わけもわからずるんるん気分でお出かけの支度をした次女に靴を履かせながら、「冬はこわい風邪が流行るから、注射を打って、なるべくかからないようにするんだよ。かかると幼稚園をたくさん休まないといけなくなるんだよ。」と説明すると、長女は黙って頷いて靴を履き、なにかを決意したような明るい口調で「どのくらい、痛い?やってみて!」と腕を出してきました。なので、「このくらいかな。あの看護師さんは、上手で、去年おかあさんやったとき、ほとんど痛くなかったし」と、腕にちょんと爪を立ててやりました。長女は「そんくらいかー!」と、楽しそうに言いました。そして「おもちみたいな針の注射だったら、いいんだけど・・・」とつぶやき、その発言に私が吹き出したので、つられて長女もゲラゲラ笑って、何度もおもち注射おもち注射と言って笑いながら歩きました。途中、何度かくじけそうになったのか、すごく歩く速度が遅くなったりしましたが、ずっと笑っていました。長女が笑っているので、次女も笑って、これから一体どんな楽しいことが待っているのだろうかというような調子で、病院へ向かったのでした。
 病院ではそれなりに待ち時間があって、長女も次女もだれていましたが、注射自体はあっという間に終わりました。本当に上手な看護師さんで、去年と同様、私はまったく、いつ刺し終わったのかも分からないくらい痛くありませんでした。長女もたぶん、あまり痛くなかったのでしょう。声一つ出しませんでした。そしてあとから「ちょっとだけ、痛かったよ」と言っていました。そうだね、それが真実だ。最後の次女は、やはり大泣きでした。痛さというより、成されていることの恐怖心で泣いたのかもしれません。子供たちは2週間後にもう一度打たなければいけませんが、ひとまず打ち終えて、ほっとしました。冬はインフルエンザだけでなくほかの感染症もいろいろ流行るから、手洗いうがいを徹底して、元気に年末年始を迎えたいです。

 年末年始に、島根と横浜、両方の実家に帰ることになったのは、島根に住む私の祖父にとって、この年末年始がさいごの年越しになる可能性が高いことが分かったからです。祖父は春になってから急激に痩せ始め、秋の検診でかなり状態の悪いガンだということが分かり、余命が1年前後と言われました。冬は中国山地に雪が積もって車での帰省が大変だから、帰らないつもりでいたのですが、祖父がみんなで集まりたがっていて、とくに長女に会いたがっていると聞いて、電車で帰ることに決めました。年末に横浜、年始に島根ということで、ハードスケジュールになりますが、なんとかがんばります。
 祖父はもう随分な年だし、ここ数年で足腰もかなり弱ったから、もうあまり長くないのだろうなぁということは、会うたび色濃く感じていて、無意識に覚悟していたから、祖父の余命が1年と聞いたとき、それほど目の前が真っ暗になるようなショックは受けなかったけれど、2年後の世界には祖父がいないのだと想像すると、これまで感じたことのない、混じりけのない寂しさが静かに押し寄せてきて、視界がぼやけました。ありがたいことに、私はこの年まで、身近な人の死というものを体験せずに生きてきたけれど、人が死ぬということは、きっとものすごくものすごく、どんなことよりも寂しいことなんだと、寂しさとはこういう感情なんだと、今、学んでいます。一緒に暮らしたころは、些細なことで苛立ったり疎ましく思うこともあったけれど、遠くない未来、いなくなってしまうのだと思うと、やっぱり、それはもう、途方もなく、寂しいです。悲しいというより、寂しいです。なにもいなくなることないんじゃないか、そんなおおげさなことやめたらいいじゃないかと、言いたくなります。お正月、うちの長女と次女と、それから姪っ子(上の妹の子)も集まれば、どうしたってにぎやかになるだろうから、わいわい楽しく明るく、きらきらの時間を過ごせたらいいなと思います。
by papiko-gokko | 2015-11-25 13:14 | Diary


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