日記と短歌
by papiko
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娘の読書スタイル。ドラマと東京。
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 娘の読書スタイルに、うつ伏せ読みが加わりました。娘の好きな遊びはいろいろあるけれど、しばらく一人で遊ばせていると、決まっていつの間にか、黙々と絵本を読み始めています。この数日間、今現在の娘の性質を把握したいという思いから、一日の遊び方や過ごし方をずっと観察していて、その結果、結局、この子のいま一番好きな遊びは絵本なのだな、絵本を読んでいるときが一番落ち着いているのだなということが、よく分かりました。それが娘の性質ならば、その性質を大切にして、絵本をそろえたり、絵本を読みやすい環境を整えたりすることに力を注ぎたいです。
 ただ、そのうえで一つ気を付けたいのが、読書家=秀才、本=勉学、みたいな印象を、娘に与えないようにしようということです。私自身、小学校低学年ぐらいまでは、純粋に読書が好きで本を読んでいたけれど、周りの大人から「読書家だね、偉いね」といった褒められ方をするうちに、だんだん、読書が純粋な楽しみではなくなってきて、大人に褒められるための本選びをするようになってしまいました。娘にはそんなもったいないことをしてほしくありません。娘にとって本はあくまでも、人生の楽しみであり心の拠り所であってほしいです。だから、本を読むことを褒めすぎたり、特別なことのように言ったりしないようくれぐれも気を付けたいです。

 木曜10時からの連続ドラマ『最高の離婚』がおもしろくて、毎週見ています。主人公の光生の言動が夫とすごく似ていて、光生の元妻である結夏のガサツなところは自分にも思い当たる節が多々あって、ケンカのシーンなんか私と夫の言い合いを見ているみたいで、いろいろ身につまされるところが多く、毎回夢中で見ています。
 ドラマの内容もさることながら、ドラマのなかに出てくる東京の風景が恋しくて、電柱に張ってあったゴミ出し表すら懐かしくて、ああ私もあのなかにいたんだなぁと、不思議な気持ちになります。やっぱり、東京って素敵です。自分に無関係の建物がたくさん並んでいて、無関係の人がたくさん歩いていて、駅ごとに曲がり角ごとに違う雰囲気があって、街全体が生き物のように刻一刻と表情を変えていく、東京の風景が大好きです。離れて再び、惚れ直しています。
by papiko-gokko | 2013-02-03 00:40 | Diary | Comments(0)
別れには種類があると知らぬ子の「バイバイ」夕焼けだからバイバイ
 歯磨きとトイレットペーパーとオムツと明日の服と持っていくカバン以外のほぼすべてがダンボールに詰められ、部屋はもはや、私たちの住んだ部屋ではなくなりつつあります。明日、往復ではない飛行機チケットで、東京を離れるなんて、いまだに少し信じられません。少し眺めの帰省のような気がしてしまって、今回のはもうそんなのじゃないんだぞと、自分に言い聞かせています。明日この家のカギを返したら、もう東京には家がなくなるのです。
 冷蔵庫のなかを空っぽにしなければならないため、いつもの友達一家のうちに中身の一部を引き取ってもらうことになり、夕方に3人で家まで行きました。最後に娘と子供ちゃんを遊ばせることができて、友達夫婦と話すことができて、嬉しかったです。こんなとき、なにをしゃべればいいのかわからなくて、ろくに会話をできなかったけれど、別れ際に、旦那さんが夕焼けの中で写真を撮ってくれて、子供ちゃんのおどけに娘がけたけた笑って、笑顔で別れることができました。子供ちゃんの元気いっぱいのバイバイに、胸が詰まりました。次に会うのは、おそらく年が明けてから、友達の赤ちゃんが生まれてから、会いに行くつもりです。

 今は、とても不安な気持ちでいます。なにが不安なのかと問われると、具体的な答えがうまく見つからないのですが、これまで東京にいてほとんど頓着せずにいた、親戚づきあいや近所づきあいをうまくやれるのだろうかとか、夫と娘に島根の暮らしが合うのだろうかとか、とにかくいろいろ、とても不安です。 娘が幼稚園になるまでの約一年半を島根の実家で過ごし、そのあとどうなるかが今のところまったく見当がつかないというのも、どうしたって不安です。きっと不安がりたいだけなんだよと言われて、確かに私はそういうところのある人間なので、結局そういうことなのかもしれないけれど、そう思ってみたところで、やはり、不安は不安です。島根へは、実家の事情もあって住むことにしたのですが、それはちょうどいいタイミングで訪れたきっかけに過ぎず、私も夫も、田舎で娘を育てたいという思いが強まっていたところだったから行くのであって、だから、あっちへいったら、幸せに暮らせる生活の形を、3人で力を合わせて探すこと、これに尽きます。よし、そうだ、力を合わせて暮らそう。書いているうちに、元気がでてきました。家族3人で力を合わせたら、どうであれ、幸せに決まっています。


 そんなわけで、私の東京、最終回。最後は駅名ではなく、これまで住んだ家編。東京で、どこが一番好きだったかって、いつの日も、自分の家ほど大好きな場所はありませんでした。

■大学1年~2年(ワンルーム)
 ユニットバスに、申し訳程度の小さなシンクとガスコンロひとつ。今から思えば、かなり狭い部屋でしたが、それでも、一人でいると、がらんとして、小さなこたつテーブルの上で常に起動しているパソコンモニターの光が心のよりどころでした。水色のカーテンに水色の布団カバーを選んでしまったせいで、余計にさみしげな部屋になっていました。4階で、エレベーターがついていたものの、なんとなくひとりで乗るのが恐くて、いつも階段を駆け上がっていました。オートロックではなかったので、ドアの前を誰かが通る足音のするたび、びくびくしていました。
 夫と付き合うようになってから初めて部屋に呼んだのもこの家です。始めてきた日、飲み物がコーヒーでも紅茶でもなく、コンビニで買ったペットボトルのお茶だったことに衝撃を受けたそうで、家にまともなティーセットがないことに驚愕し、クリスマスプレゼントに、ランチョンマットとティーセットをくれました。このときから、私の生活力を育てるための、夫の長い長い戦いが始まったのでした。

■大学3年~4年(1K)
 セキュリティー面での不安から、今度はオートロック付きの学生マンションに住みました。ユニットバスではなくなり、きちんとした洗面所もあって、最初の家より随分暮らしやすくなりました。コンロは前の家と同じくひとつだったけれど、前よりはまな板をおけるスペースもできて、当時恋人だった夫がくるたび、パスタをゆでたりして簡単な料理をするようになりました。私はというと、相変わらず、バイトで賄いをもらえる日と夫の来る日を除いて、レトルトとお惣菜に頼る日がほとんどでした。友達いわく、冷蔵庫にはいつも冷凍タコ焼きがあったとのことで、確かにあのころ、たこ焼きもやたら食べていた気がします。あと、このころから肌が荒れだしたため、一生懸命アセロラドリンクを飲んでいました。私はベランダという場所があまり好きではないのだけれど、この家に関しては、街の雰囲気そのものが心地よくて好きだったので、たまに夫とベランダに出て、民家やお店の並ぶ路地を眺めながら語らったりもしていました。将来を漠然と憂いつつも、自由気ままな時代でした。

■社会人1年目~2年目の途中(1K)
 再びオートロックではない、普通のマンションに引っ越しました。ユニットバスではなかったし台所は広かったけれど、灰色のドアに真四角の絨毯部屋に真っ白な壁で、どことなく面白みには欠けていました。
 本当は社会人になると同時に同棲をしたかったのだけれど、社会人を1年間してしっかり自立して暮らせるようになってからでないとダメだと両親に反対され、でもどうしてもそばで生活をしたかったため、夫(まだ恋人)と同じマンションの別の号室に住むという、奇妙な形をとりました。最初のうちは、なんだか『のだめカンタービレ』みたいで楽しいかもなんて浮かれていましたが、結局どちらかの家にいることが多くなり、家賃がもったいなくて、2年目の途中で、私が家を引き払い、夫のほうに家具を無理やり運び込んで、引っ越し資金が貯まるまでの数ヶ月、ものすごく狭い中で数ヶ月ほど同棲生活をしました。社会人1年目という精神的にきついころだったこともあり、一番ケンカをしたのは、この家に住んでいた時期だった気がします。

■社会人2年目の途中~社会人5年目の夏まで(2LDK)
 夫と正式に同棲生活を開始した、記念すべき家です。最も好きだった家といっていいかもしれません。ふたりで家選びをして、最後に見せてもらったこの家に一目惚れし、多少予算オーバーだったものの、どうしても住みたくて、ふたりとも働いながら旅行も外食もショッピングもあまりしないのだから家ぐらいちょっと贅沢したっていいじゃないかと、決めてしまいました。これまで住んだところとは比べ物にならないほど広くて、タイルや床の色などひとつひとつに趣きがあって、リビングには窓がたくさんあってきらきら木漏れ日が降り注ぎ、まるで小説に出てくる部屋のようで、嬉しくて仕方ありませんでした。この家にあわせて、家具もいくつか買いました。
 同棲を1年したのちに入籍し、その約2年後にはお腹に娘もできて、結婚と妊娠という、人生の大きな節目のときを過ごした家でもあります。駅から徒歩20分ほど離れていて、その20分の道のりを、短歌を考えたり音楽を聞いたりしながら歩く、仕事帰りの時間が好きでした。古い商店街を歩いて、橋を渡って、坂を昇った途中にあるというのも、物語っぽくて好きでした。本当に、できることならいつまでも住んでいたいと思ったくらい、大好きな家でした。

■社会人5年目の夏~今日まで(3DK)
 妊娠時代も含め、娘を中心とした家族の思い出が詰まった家です。ごくありふれた3DKで、とりたてて情緒のある家ではないけれど、娘が生まれてから写真を撮りまくっていたので、この家ほど写真を撮られた家はほかにありません。臨月のおなかを抱えて、安産のため拭き掃除に励んだこと、生まれたての娘を抱いて病院から帰ってきた日の真っ青な空、母のいた産後3週間、こわごわ入れていたお風呂、まだ寝返りも打てない小さな小さな娘を夫とふたりでかわいいかわいいと見つめてばかりいたこと、震災直後たくさんの人が訪ねてきてくれたこと、動き始めた娘のために繰り返し起き場所を変えた家具たち、初めて畳みでハイハイして慌ててビデオを回したこと、ある日お風呂場までハイハイしてきて驚いたこと、お部屋のなかでミニプールをしたこと、拭いても拭いても娘が食べこぼす床、ベランダから外を眺めた雨の日、近所にあったいくつかの公園、娘とふたりで時間をもてあましながら、夫の帰りを待った長い長い時間。この家には、そんな思い出が詰まっています。きっと、後々、写真を見るたび、たまらなく懐かしくなることでしょう。

 以上、私の東京でした。書いたこと以外にも、東京タワーに何度か行ったこととか、クレヨンハウスとか、他にも色々、記憶が駅名と直結していなくて書きそびれてしまったものも多くて、思い出し始めると、きりがありません。きりがないほどたくさんの思い出をくれた東京を愛しています。さようなら東京。また来るよ。
by papiko-gokko | 2012-07-17 01:02 | Diary | Comments(0)
見つかった帽子と落ち着かない娘。私の東京、私鉄・地下鉄・モノレール編。
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 先日バスで落としてしまった娘の白い帽子が無事に見つかり、夫が取りに行ってくれて、手元に帰ってきました。ニキティキで買ったゾウのバッヂもちゃんとついています。ああ、よかった。もうこのようなことがないように、帽子と洋服を留めておくクリップを買いました。これなら、帽子がはずれても安心です。
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 引っ越し作業もいよいよ大詰めとなり、さすがの娘も落ち着かないようで、今日は抱っこを何度も求めてきたり、食欲が極端にあったりなかったり、夜も興奮気味でなかなか寝付かなかったりしました。娘のためにも、はやくあちらでの日常をスタートさせたいです。がんばろう。

 私の東京。私鉄・地下鉄・モノレール編。
 地下鉄の駅に関しては、2度ほど、東京メトロ・都営地下鉄一日乗車券で夫と東京めぐりをしていて、その思い出が大きいです(東京メトロ・都営地下鉄一日乗車券での旅記録 1回目 2回目)。

■神保町
 神保町の古本屋街がどんなものかを知りたくて、大学1年生のころ、高校の同級生で同じ大学に進学した子と行きました。その友達は演劇の本を求めて行ったのですが、その日はあいにく日曜日で、多くの古本屋さんが休業していて、ふたりでがっかりしたのを覚えています。
 その後、夫とも何度か行きましたが(東京メトロ一日乗車券の旅では2度とも行っている)、あまりに専門的すぎて、結局あまりお目当ての本には出会えないまま帰ることがほとんどでした。買えるような本はなくても、専門分野の学術書ばかりを集めた古本屋が軒を連ねている様子は、外から眺めるだけでわくわくしました。医学、科学、漢学、演劇などなど、世の中には多くの学問があり、その学問ひとつひとつに、膨大な量の学術書が書かれているのだということを目の当たりにして、私がこれまでに学んできたことなんて、学問のほんの入り口の浅瀬で足をばしゃばしゃさせているだけのことなんだなぁと、学問の世界の深さを思い知りました。学術書のお店だけでなく、古い雑誌や、レコード、セル画などを扱っているお店もあり、日常ではお目にかかれないようなものたちを、手にとって眺められることに興奮しました。

■銀座
 夫とふたりで、東京メトロ一日乗車券の旅(2回目)の際に行きました。テレビでよく映るあの有名な時計塔の建物(和光)を見た時は、やはり感動しました。その日、銀座では念願の資生堂パーラーに行って、ケーキを食べました。太宰治や吉行淳之助など昭和作家の小説に度々でてくる資生堂パーラーは憧れの場所の一つで、ケーキを食べている間ずっと夢見心地でした。あまりに夢見心地すぎて、男子トイレに入ってしまったほどでした。あのときは、人がこなくて本当によかったです。ケーキが美味しかったのかどうかもう忘れてしまいましたが、窓から見下ろす銀座の街は、なんともお洒落で東京チックで、うっとりし通しでした。誰もがおしゃれをしているなかで、私も夫もパーカーにスニーカーだったのが少し場違いで恥ずかしかったけれど、いい思い出です。

■青山一丁目
 もしかしたら間違っているかもしれませんが、たしかこの駅に、大学の友達2人と、紙を買いに行きました。当時、3人で絵本づくりをしていて、その絵本の表紙につかう紙を探していたのでした。青山の街はとても道が整備されていて、大通りを曲がるとまた大通りで、その両側にピカピカのビルが立ち並んでいました。道行く人たちも、なんだかかっこよくてスタイリッシュに見えました。

■後楽園
 後楽園といえば、東京ドーム。東京にいる間に、2度ほどB’zのライブを見に行きました。1度目はスタンド席、2度目はアリーナ席で、どちらも大興奮でした。なぜか出入口の風圧がすごくて、ライブのあとはいつも吐き出されるように外へでていたことをよく覚えています。後楽園という駅名も椎名林檎の歌にでてくるから、それだけでもう、降りるのが嬉しい駅なのでした。

■霞が関・永田町
 霞が関か永田町か、どちらの駅だったのは忘れましたが、大学受験で東京に来ていたとき、一次試験の結果待ち期間で、母といろいろ観光をしていて、せっかくだから国会議事堂も見てみようよということになり、下車しました。しかし、降りたものの国会議事堂の場所がよくわからず、母とるるぶの地図ページをひらいて途方にくれていたら、きちっとスーツを着たエリートサラリーマン風の男性が通りかかり、「どちらへ行かれますか?」と、親切に道を教えてくれてから颯爽と去っていき、私も母も、その都会的雰囲気に、すっかりぽうっとなりました。東京の人らしい、さらっとした親切さに、初めて触れた出来事でした。

■九段下
 九段下へは、武道館へ2度ほど行きました。1回目は大学の入学式、2回目はB'zのライブでした。入学式のあと、私はガイダンスを受けるために大学へ行き、母は九段下からそのまま空港へ向かったため、九段下は、上京して初めてのさよならをした場所でもあります。「じゃあねえ」と、わざとなんでもないふうに別れて、しばらくはそのままなんでもないふうを装っていられたけれど、ガイダンスの途中からは、不安で寂しくて、涙が出て仕方ありませんでした。九段下から武道館へと向かう坂道の桜が、とてもきれいな時期でした。

■水天宮前
 つい先日お礼参りにいった水天宮。妊娠中、残暑厳しい晴天の日に、安産祈願のご祈祷をしてもらい、そのあと、母と義母と夫と4人でおそばやさんに入って、おそばを食べて、ふらふらになりながらも人形焼きを買って帰りました。とにかく、あの夏は、暑かった!

■明治神宮前
 2度ほど、神宮球場に、ヤクルトの試合を観に行きました。1度は夫とふたりで、2度目は父も一緒に3人で行きました。夫と行ったときは、交流戦の時期で日ハムと試合していて、ダルビッシュ選手を観ることができました。すらりと手足が長くて、かっこよかったなぁ。父と行ったときは、横浜との試合で、残念ながら負けました。途中、小雨が降ったりして少し寒くて、帰り道も負けたからみんながっかり気味だったけれど、とても貴重で、いい思い出です。このほかにも、WBCで日本が優勝した年に、トロフィーを見に行ったこともありました。トロフィーの前は人だかりができていて、私も夫と興奮気味に写真を撮りました。 

■両国
 なんの折りだったのかは忘れましたが、夫と行って、両国国技館を見てから、ちゃんこを食べました。両国で、ちゃんこを食べる以外に何をしたのか、具体的なことをほとんど覚えていないのが残念です。夫は大相撲が好きなので、両国国技館や、駅に飾ってある大きな横綱の絵に興奮気味でした。覚えているふわふわした記憶から察するに、私はちゃんことお酒が合うことに感動して、日本酒を少し飲み過ぎたりしたのだろうと思います。

■築地
 父と夫が初めて会った日、夜にお寿司を食べました。上野駅で待ち合わせ、喫茶店ではじめましての挨拶をして、お城の石垣好きの父のリクエストで皇居のお堀周辺を回り、桜田門なども見て、そのあと夫のリクエストで、築地のお寿司屋さんに行ったのでした。夫からも父からも、あの日、わざわざ築地のお寿司屋さんで魚じゃない納豆巻きを頼んだことを、いまだに言われます。もともとあまり、お寿司は得意じゃないのだもの。父は、初めて会った夫に対して、意外なくらい優しくて、夫と2ショットの写真をたくさん撮ってくれたりしました。そして、かなり酔いのまわったころに、「よかったなぁ」と、しみじみ言いました。よかったなぁと、父が思ってくれるような相手で、本当に、よかったよなぁ。

■浅草
 母と妹と観光で行ったこともあるし、夫と行ったこともありました。2度とも、オーソドックスに雷門の前で写真を撮り、人形焼きを買って食べました。外国人向けの商品を売っている商店街が面白かったこと、私たちが子供のころに親しんだ水につけるとふくらむ消しゴムを売っているおじさんがいたこと、神社になぜかコスプレイヤーの人たちがいたことなど、コマ切れに思い出します。

■下北沢
 一度だけ、なにかのついでがあって、夫と行きました。劇団の張り紙があったり、手作り品を売る雑貨屋があったり、なんだか、独創性を磨きたくなるような、創作意欲をかきたてられるような、そんな若々しい活気に溢れている刺激的な街でした。それゆえに、せっかく東京にいてもどうせ私はこういう世界に飛び込む勇気なんてないんだ・・・と、なんとなくいじけた気分になってしまいました。

■お台場
 2度行ったことがあります。1度目は大学受験で東京へ来ていたとき、母と行きました。2度目は妹たちが遊びにきたときでした。母と行ったときは、自分がお台場にいるんだというそのことに興奮していて、どんな展示を見たのかは、あまり覚えていません。目覚ましテレビくんのシャーペンを買って、それを授業で割とよく使っていました。2度目のときは、そのときちょうど、「ありがとう北の国から」という特別な展示をやっていて、私も妹たちも北の国からを見たことがないのに、なぜかお金を払ってその特別な展示を見ました。妹たちとその話しになるたび、ドラマ知らないのに見てもわからんかったのにねえと、大笑いになります。東京にきた妹たちに、とにかく都会っぽさを味わわせて、こんな都会で暮らすお姉ちゃんってすごい!と思ってもらいたくて、必死だったころの出来事でした。

■有明
 勤めていたころ、東京国際展示場で開催された展示会の、自社ブースのスタッフとして参加したことがありました。家から相当遠かったから、とにかく嫌で嫌で仕方なかったのですが、行ってみると、街の作りも国際展示場の建物も近未来的ですさまじいし、たくさんの会社が自社製品をアピールしているブースを眺めるのも面白くて、ちょっと文化祭っぽくて、なかなかいい経験をさせてもらいました。

■浜松町―羽田空港
 学生のころ、飛行機で帰省するたび、利用していた2駅です。浜松町から羽田空港まで、モノレールの窓から眺める東京の風景が、とても好きでした。羽田へ向かうときには、あぁ私は東京の人としてどのくらいがんばれたんかなぁと、なんとなく哀愁を帯びて疲れた心で、再び東京へ戻ってきて浜松町へ向かうときには、よーしまたがんばらないとなーという情熱的な心で、眺めていました。大井競馬場前では、いつも馬が見えるかどうか、探していました。
by papiko-gokko | 2012-07-16 01:06 | Diary | Comments(0)
三者三様引っ越し前。 私の東京、中央線編。
 荷造りの一日。ダンボールが足りなくなって、追加で10箱もらいました。これまでにも2度追加していて、もう軽く50箱越えている計算になります。今日はカーテンも洗いました。カーテンを外すと、部屋から特徴的な色が消えて、カーテンの布に吸収されないせいか声が部屋に響くようになり、いよいよ引っ越し直前の感じになってきました。
 部屋がダンボールだらけになっていくなか、娘は、おもちゃが日に日に減っていることにも気付かず、普段通りそのへんのもので遊び、絵本を読み、夕方には幼児番組を見て踊っています。仕事を辞めてから食事担当になってくれた夫は、もうお皿もお鍋もほとんどダンボールに詰めてしまったというのに、まだかたくなに普段通りの食事を作ってくれています。夫にとって日常は食事と直結していて、だからどんなに部屋がダンボールだらけになろうとも、食事さえ普段通りきちんとしていれば、夫の日常は損なわれないのだそうで、前日の夜まで普段通りの食事を作ると言っていました。私はというと、ひとり完全に非日常モードに突入していて、部屋をうろついてまだダンボールに詰めていないものを手にとりながら、あちらでの生活がうまくいくのか、不安がってばかりいます。

 私の東京、中央線編。

■中野
 初めて行ったのは、大学1年生のとき。大学進学で上京した高校の同級生数名で集まって、中野ブロードウェイを歩きました。古いアニメの雑誌やらフィギュアやらポスターやら、見るものすべてが珍しく、そこで品物を物色している熱心なファンらしき人たちの様子もまた珍しく、東京ってすごいところだ!と、渋谷や新宿などのわかりやすい大都会で感じるのとはまた違った感動を覚えました。その後も、高橋留美子の短編集が欲しくてひとりで行ってみたこともあるし、夫とブックオフではなかなか手に入らない漫画を買い求めに行ったり、ジョジョ好きの妹を連れて行ってみたり、結構何度も行っています。一角に、高橋留美子直筆のサインが飾ってあって、行くたびそれを眺めては感慨にふけっていました。

■高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪
 この4駅にそれほど長居したことはないものの、中央線沿いに遊びに行ったときに降りて、ちょっと商店街を歩いてみたりしたことが何度かありました。ひと駅違うだけで、並んでいる店の傾向も歩いている人たちの雰囲気もかなり違っていて、こういうのもまた東京生活の醍醐味なのだろうなぁと思いながら、それぞれに違った味わいのある街並みを楽しんでいました。阿佐ヶ谷の商店街に行ったとき、電気屋さんの店頭に置いてあったテレビの前に大勢の人たちがあつまって、盛り上がりながら大相撲の千秋楽を見ていたのが、まるで昭和にタイムスリップしたようで面白くて、印象に残っています。

■吉祥寺
 つい先日も訪れた吉祥寺。大学の友達と絵本屋さんめぐりで行って以来この町のファンになり、夫とも度々訪れました。今は閉店してしまった絵本とおもちゃの店『おばあちゃんの玉手箱』や、先日も行った木のおもちゃ専門店『二キティキ』、ナチュラル系食器の100円均一『ナチュラルキッチン』など、吉祥寺に行ったら必ず行くお気に入りのお店もできたし、可愛い端切れがたくさん売られている布のお店や、壁中にありとあらゆる色かたち大きさのボタンが並ぶボタン専門店(看板までボタン!)、店主の趣味嗜好が透けて見える雑貨屋さん、暗がりにランプの灯る喫茶店などなど、歩けば歩くほど、角を曲がれば曲がるほど、物語に出てくるような面白くて可愛いお店に出会えて、行くたび魅了されました。戦後の雰囲気がそのまま残っていそうなハモニカ横町も情緒があって好きだったし、表現者たちの集まる井の頭公園も好きでした。スワンボートというのに、乗ってみたかったなぁ。

■三鷹
 三鷹には2度行ったきりですが、忘れられない思い出があります。大学2年生の6月19日、母が東京にきて、母が予約してくれていた『ジブリの森美術館』へ行くため初めて三鷹に行き、私の希望で、美術館へ行く前に、太宰治のお墓を参りました。なぜ日付をはっきり覚えているのかというと、その日がちょうど桜桃忌で、たくさんの太宰ファンが訪れていて、私もその人たちにまぎれてお参りしたからです。おそらく私は5月のゴールデンウィークに帰省しているはずで、なぜそのたった一カ月後の6月に母がきたのかは思い出せないのですが、当時の私は東京での大学生活をまったく楽しめないでいる自分にすっかり失望してやる気をなくしていて、周りが見てわかるほど危険なレベルでネットの世界に依存していたので、母はよほど心配だったのかもしれません。そんな心配な娘が、浮かない顔で「太宰治のお墓いきたい」と言ったりして、ますます心配になったことでしょう。まさかそのわずか1カ月後に恋人ができて、日常が一変するとは、私も母も、思いもよらなかったころのことでした。
 太宰治のお墓を参ったあと、ジブリの森美術館を見て、それから、地下の喫茶店に入りました。よく晴れた日で日射しが強くて、私も母も、歩き疲れていたのです。その喫茶店は、文豪がタバコをふかしながら小説でも書いていそうな、昔ながらの重厚な雰囲気で、私も母もとても気に入って、長居しました。周りのテーブルでは、サラリーマン風の人や高校生がのんびり本を読んでいたりして、母が、「こんなとこでアルバイトしてみたら?」とか、「東京には、こんな素敵なとこがいくらでもあるんだろうけん、いろいろ探してみるだわね」とか、そんなことを言っていたような記憶が、うっすらとあります。せっかく東京にいるのに内に閉じこもっている娘が、歯がゆくて、少しでも世界を広げてほしいと思ったのでしょう。ずっと行きたかった『ジブリの森美術館』に行けて、太宰治のお墓参りもできて、とても楽しい一日だったはずなのだけれど、あの日、母がどんな気持ちで、あのときの私のことを見ていたのだろうかと思うと、泣きそうになります。そして、母に胸を張って語れることがなにもなくて、いじけきっていたあのころの心を思い出すと、今でも苦しくなります。
 2度目の三鷹来訪は、大学の友達と、やはり『ジブリの森美術館』へ行きました。そのころにはたぶんもう大学生活にも慣れてきていて、楽しく健やかな一日を過ごせた記憶があります。あのとき買った魔女の宅急便の便せんはまだ使い切っていません。ただ、2度も行ったのに、ジブリの森美術館がどういうところだったか、イマイチ思い出せないのです。早く3度目の来訪をしたいです。

 
by papiko-gokko | 2012-07-14 23:31 | Diary | Comments(0)
行っておきたい場所めぐり、原点の場所。
 東京を去る前に行っておきたい場所めぐり、最終章として、今日は所沢に行ってきました。所沢は私が上京して最初の2年住んだ場所なので、思い入れがあります。所沢の街へはこれまでも夫と何度か行っていますが、今回は街めぐりだけでなく、さらに所沢で電車を乗り換えてもうひと駅移動し、そこからバスに乗って、大学1、2年のころに通った母校の所沢校舎にも訪れてみました。3,4年のころに通った練馬のほうにある校舎へも卒業後何度か行きましたが、通っていたころすでに工事中でプレハブで授業を受けていて、今はすっかり新しくなってしまっていて、残念ながら校舎に懐かしさはありません。だから、今も変わっていない所沢校舎で、行っておきたい場所めぐりの締めくくりをしたくなりました。
 大学のころは、大学専用バスで行っていましたが、卒業して6年絶ったはそれを利用できる券を持っていないので、普通のバスを利用して、大学の前で降りました。バスは結構混んでいて、娘を抱いて立っていたので、バスからの景色を懐かしむ余裕はなく、暴れる娘に手を焼いているうちに学校の前の停留所についていました。
 所沢校舎の校門をくぐった瞬間から、胸いっぱいゆるやかに懐かしさが広がり、思い出というほどでもない、その頃に自分の抱いていた気だるくて不安定な想いが、まざまざとよみがえってきました。校門を入って最初にある建物である事務局前の掲示板は、当時と同じように休講のお知らせなど張りだされていて、1年生の夏休み前、掲示板の前でぼーっと立っていたら、ゼミで一緒だったオシャレ系の男子が通りかかって、「髪かなりあかるめに染めたね似合うジャン」と声をかけてくれて、嬉しくなって照れながら、でも次の瞬間には、ああきっと本当はちっとも似合わないって思ったんだろうなといじけた心で思った、そんなどうでもいいエピソードを思い出したりしました。
 文芸学科が主に使っていた棟も、当時とほとんど変わらなくて、あぁこの椅子でよく前の授業が終わるのを待っていたなぁとか、深夜5時までネットしたせいでひどい寝坊をして息を切らして階段を駆け上ったなぁとか、そんなことを思い出しました。普段は思い出さなくなってしまったような、同じ学科で一緒に授業を受けていた人たちの顔も、ちらほらと思い出しました。
 校舎についたのがちょうどお昼時で、平日なので授業を終えた学生さんたちがあちらこちらからわらわらと出てきて、学生らしい自由な恰好をして歩いていました。男の子も女の子も、お洒落な子もお洒落にあまり興味のなさそうな子も、みんな若々しくて、眩しく見えました。なにしろ、10歳や9歳も年の離れた子たちなのです。しかし、10年の時を経ても、当時と今の学生の雰囲気はさほど変わっていないように思えて、ともすれば、当時の知り合いが向こうから授業を終えて歩いてくるような気さえしました。
 ちょうど食事どきにぶつかってしまったものの、それほど食堂は混んでいなかったので、私たちも学生さんに交じって、食堂で昼食をとりました。夫はかつ丼、私は当時週3回は食べていたカレーライス、娘はあらかじめ買っておいたベビーフードを食べました。学食の雰囲気も当時とほとんど変わりなく、テーブル席で4,5人座ってわいわい楽しそうにしゃべっている華やかな学生さんグループもいれば、Tシャツにジーンズで、窓際のカウンターにひとり座って携帯をいじりながら黙々と食事している、当時の私みたいな学生さんもいました。変わったことと言えば、黙々と食べている人たちのいじる携帯が、ボタンではなくタッチ式になったことぐらいでしょうか。友達がいなかったわけではないのだけれど、一人で行動していてもまったく悪目立ちしない校風だったので、高校までは味わえなかったその気楽さを思う存分満喫していたのでした。
 娘に食事を食べさせ終えてから、カレーライスを黙々と食べる私、夫が「あのころと同じカレーを食べてる姿を見ていると、10年前と変わらないような、10年経ったなぁって感じがするような、不思議な感じがする」と言いました。いやぁ、経ったよ、しっかり、すっかり、10年経った。
 そういえば、夫との間に記憶の相違が発覚して、大学2年生の夏、忘れもしない7月8日に、夫が告白してくれた場所を、私は食堂のそばの広場だと記憶していたのに、夫はもっと人気のない場所だと記憶していました。でも、私は、こんな割と人通りの多いところで・・・と思った記憶があるし、そのシーンを何度も思い出しては嬉しがっていたので、私の記憶のほうが正しい気がします。
 食事を終えたら、ちょうどバスの時間が近づいていたので、少しだけ娘を屋外舞台で遊ばせてからバスに乗り込み、所沢の街に戻りました。私が当時住んでいたマンションの前を通り、そのすぐそばのお菓子屋さんを通りすぎながら、そのお菓子屋さんで母がわざわざお菓子を買って、「すぐそこのマンションに娘が住みますので、どうぞよろしくお願いします」と、しきりに頭を下げ、恥ずかしかったのを思い出しました。でも、今なら母の気持ちがわかります。私も、娘が自分の手を離れて一人暮らしすることになったら、その街じゅうの人たちに、どうぞ娘をよろしくお願いしますと頭をさげて歩きたくなるに違いありません。田舎で育った19やそこらの娘を知らない街にひとり置いて帰るのは、どんなに不安だったろうと思います。
 お菓子屋さんは以前のままありましたが、私がよく食料を調達していたコンビニもお惣菜屋さんもなくなっていました。私はあんなに利用していたのに、なくなるなんて、一人暮らしの学生さんが、減ったのでしょうか。当時通ってめぞん一刻とうる星やつらを集めたブックオフにも寄って絵本を2冊ほどまた買ってしまい(すごく欲しいのを見つけてしまった)、夫と付き合ったばかりのころによく歩いた商店街を歩き、最後に駅の近くの銀行で引っ越しで支払うお金をおろして、最終章の行きたいところめぐりをしめくくりました。
 一日中蒸し暑くて、娘が心配でしたが、途中で寝たりして、最後まで元気でいてくれました。

 そんなわけで、昨日に引き続き、私の東京。今日は日記が長くなったので、所沢のみ(所沢は埼玉だけど、当時の私にとっては東京だったので、特別枠)。
 ■所沢
 所沢は、最初にも書いたとおり、最初に住んだ街だから、思い入れがありますが、駅前商店街は、地方から出てきた学生が初めて住む街にしてはちょっと賑やか過ぎたのか、最後まで馴染むことはできないまま離れてしまいました。所沢の思い出には、暗さと眩しさが同居しています。サークルにも入りそこね、授業もまだそれほど楽しくなくて、日々の暮らしに少しも楽しみを見出せず、高校までのように誰も決まりごとを作ってくれない毎日をどんなふうに生きたらいいのか探せば探すほど見失い、颯爽と歩く自立した都会人にならなくてはという焦りと、大学で自信に溢れている人たちとふれあうたびに味わう敗北感や劣等感、自分をそばで見守ってくれる人のいない寂しさや虚しさ、なんだかそういうものがごちゃまぜになってやる気がでなくて気だるくて、ネットの世界に逃げ込んでいました。バイトをしようとがんばったこともあったけれど、結局うまくいかなくて、それでますます内に籠っていきました。だから、所沢の街を歩くと、あのころの暗い自分を思い出して、辛くなります。だけど、その辛さを思い出すと、夫と付き合い始めてからの、ふいに部屋中の窓を開け放たれたような明るさも同時に思い出すことができるから、やっぱり、所沢は、今の私の原点となった、大事な場所です。
by papiko-gokko | 2012-07-14 00:12 | Diary | Comments(0)
体調不良の日。私の東京、山手線編。
 寝不足と食べすぎで午前中は具合が悪く、このまま体調が崩れたらどうしようかと思いましたが、午後仮眠をとったらほぼ治りました。私がへばっている間ずっと夫が娘の面倒を見てくれて、おかゆも作ってくれて、助かりました。引っ越し前に風邪なんかひかないよう、気をつけなければ。

 いよいよ東京を離れる時が近づいてきて、自分のなかで、東京での思い出を整理したいので、何日かに分けて、思い出深い私の東京を、駅名ごとに記すことにしました。まずは、山手線から。

私の東京 山の手線編 (順番は、思いついた順)

■池袋
 なんといっても、私の思い出深い街No.1は池袋。少し前にも書きましたが、大学受験で池袋のホテルに泊まったときから付き合いが始まり、その後も西武池袋線沿線に長らく住んでいたので、買物でも就職活動でも友人や家族が東京へ遊びに来た際に最も自分がそれっぽくふるまえる観光案内の場所としても、とにかく事あるごとに利用していました。結婚指輪も、池袋のお店で買いました。東口の大きな横断歩道や、サンシャインシティへ続く繁華街を、必要以上にさっさか、あるいはやたらとちんたら歩きながら、東京っぽさを全身で感じて、東京にいる自分を満喫していました。あの喧騒にはなかなか体が慣れなくて、最初の2年ぐらいは、行くたび頭が痛くなっていた気がします。いろんな人と何度も歩いて、いろんなものを見たり買ったりしたし、ひとりで歩いていたときには、悪質なキャッチセールスに捕まったこともあったし、いい思い出も悪い思い出も、すっかり景色に染みついています。

■渋谷
 最近では夫の実家へ行く時の乗り換え駅という認識しかありませんが、上京したばかりのころは、渋谷といえばスクランブル交差点とかハチ公とか109とか、めざましテレビなんかでもよく映る、東京のなかの東京というイメージでした。大学1年生のころ、高校時代の友達と、ハチ公前で待ち合わせをして、スクランブル交差点を渡って、さしたる目的もなく歩いて(ハチ公前での待ち合わせをしてスクランブル交差点を渡った時点で、渋谷でやってみたかったことを果たしてしまったため)、そのうちにうっかり怪しげなホテル街みたいなところへ迷い込んでしまい、おろおろしていたら、そこにいた大人のカップルに「しゃかいけんがくぅ?きゃはは」と冷やかされ、全力疾走で通りを抜けたのも、今となってはいい思い出です。その日は、ワールドカップの試合のある日で、夕方になると、ユニフォームを着た人たちが、渋谷の商業ビルの巨大モニターに映る試合を見て盛り上がりはじめていて、うわー東京っぽいーと、試合ではなく渋谷で盛り上がる人たちに興奮しました。

■原宿
 NHKスタジオパークに行くため最近ひさしぶりに降りた原宿。社会人になってからはもうめっきり行かなくなりましたが、学生時代はそれでもなんどか挑戦し、行くたびに自分の常識とはかけ離れたファッションの人たちを目撃し、カルチャーショックを受けて帰っていました。夫と付き合って1年ぐらいのころ、妹たちが東京に遊びに来て、4人で原宿へ行ったこともあったし、恋人時代に二人で行ったこともありました。そのときは確か、おそろいの指輪を探していて、原宿なら面白いのがあるかもしれないと思って出向いたのですが、竹下通りを歩いてみたものの結局見つからず、疲れきってファミレスに入ったら、隣の女子高生数名が、ものすごい内容の赤裸々トークで盛り上がっていて、私も夫もあまりのショックさと気まずさに「オイシイネ」しか言えなくなり、そそくさと食事を済ませて席を立ち、原宿は私たちの来る場所じゃないね、という結論に達して、その後デートに原宿を選ぶことはありませんでした。

■新宿
 最後まで馴染めない街で、行くたびに駅内でも街でも迷ってばかりいたけれど、高いビルの立ち並ぶ街並みに、東京っぽさをビリビリ感じて痺れていました。初めて歌舞伎町を見たときには、浮かれて椎名林檎を口ずさまずにはいられませんでした。大学時代の友達と遊ぶ場所は新宿が多くて、いつだったか、友達のひとりがロリータファッションにはまっていた時期には、そういうお洋服だらけのお店(確か、マルイだった気がする)に行ったこともありました。コマ劇場に劇団新感線の劇を観に行ったこともあったし、高校時代の同級生の子と大正ロマン溢れるお洒落な喫茶店に行ったこともあったし、就職活動中には、早朝の新宿駅に降り、にぎわっていた夜の気配があちこちに散らかるゴミにだけ残り、しんと静まり返った街に驚いたこともありました。妊娠中にも友達と新宿に行って、一緒に母子手帳ケースを選んでもらったことがありました。そのときに買ったアフタヌーンティーの母子手帳ケースは使い勝手が最高によくて、だらしのない私でもうまく使いこなせています。

■恵比寿
 恵比寿といえばビール。恵比寿駅で停車して、CMでおなじみのあの音楽が流れるのを聞くと、いつも愉快な気持ちになります。父と夫と3人で恵比寿ビールの記念館に行ってそのあとビールを飲んだこともあるし、夫と同じ日に別の資格試験を受けて、そのあと恵比寿で待ち合わせ、飲み屋さんで飲んだこもありました。広々として、美しい印象の街でした。

■上野
 夫と上野動物園へデートに行ったのが最初で、池袋とは一味もふた味も違うアメ横の賑わいが面白くて気に入って、何度か遊びに行きました。いつもの友達一家(当時はまだ、友達が子供ちゃんを妊娠中のころ)とたこ焼きパーティーをすることになったとき、タコを求めてわざわざアメ横まで行ったものの、どこもタコまるごとで売っていたので、魚屋さんで「タコの足だけって売ってないですか」と夫が聞いたら、「そんなもんはスーパーで買いな」ち言い放たれ、ふたりして心が折れたこともありました。娘が生まれてからも、2度動物園に行きました。

■東京
 東京駅、という、その響きだけで、学生時代は痺れていました。就職活動で東京駅周辺を歩いたときには、国際フォーラムのガラス張りビルの美しさや、オフィス街の洗練された雰囲気に魅せられ、ああ東京ってかっこいい、東京でバリバリ働く人たちかっこいい、と、東京への憧れを強くしました。いつだったか、夫とふたりで歩いたこともあり、そのときは秋の暮れで、銀杏がとてもきれいだったのを覚えています(この日の日記に、写真ありました)。東京駅近くのカフェに入ったら、ドラマのセットみたいなお洒落なカフェ内に、株の取引?をするパソコン付きのテーブルコーナーが併設されていて、それにも驚きました。

■品川
 新幹線での帰省でいつも利用していた駅です。岡山から乗った新幹線が品川に近づくにつれ、だんだんビルが増えてきて、東京らしい街並みになり、夕日をきらきら反射するビルの姿に、帰省してふやけた心を叩き起こされて、よしがんばろうと、姿勢をただしたものでした。


 もっと書きたいけれど、今日は早く寝て体調を整えたいので、ここまで。あと数日で、私のなかにある東京を、どれだけ書き切れるだろう。書けば書くほど、書きたいことが増えてきてしまうというジレンマ。
by papiko-gokko | 2012-07-12 23:59 | Diary | Comments(0)
思い出いっぱいの池袋と、スタジオパークのワンワン。
 今日は夫が休みだったので、一家で電車に乗ってお出かけしました。行き先は、渋谷のスタジオパーク。東京から引っ越してしまう前に、娘に東京ならではのレジャーを体験させてやりたくて、今ちょうどスタジオパークで、ワンワンとあそぼっ!という、ワンワンに会えるイベントをしているというので、行ってみることにしたのでした。

 今回、今住んでいる家からだと本当はまったく近くもなければ便利でもない西武池袋線をわざわざ利用して各駅停車で池袋まで行き、池袋から山手線に乗っていくというルートで移動しました。西武池袋沿線には、出身大学や、大学時代と社会人時代の途中まで住んでいた街があり、当時毎日のように利用していたので、東京を離れる前にもう一度乗っておきたかったのです。
 妊娠や育児中心の日々で、もう池袋には2年近く行っていませんでしたが、西武池袋沿線に住んでいたころは、お出かけといえば池袋でした。大学受験のとき母と泊まったホテルも池袋で、試験当日、ホームの多さに動揺してわけもわからず急行に乗り、発車寸前で心配になって隣に座った人に「○○駅に止まりますか」と尋ねたら、その駅は各駅電車しか止まらないと言われ、慌てて乗り換えたのでした。上京して2年目ぐらいのころ、池袋サンシャインシティの前を一人でぼけーっと歩いていてキャッチセールスにつかまり恐い思いをしたこともありました。もちろん、そんなほろ苦い思い出だけでなく、楽しい思い出もたくさんあって、簡単には語り尽くせません。
 池袋駅のホームに降りると、懐かしさが一気にこみ上げてきました。ズラリと並ぶ自動改札、大勢の人が立ち止り見上げている運賃表、改札を出た突き当たりにある、よく待ち合わせ場所にしていた宝くじ売り場、西武百貨店のショーウィンドウ、東口前の大きな横断歩道と、その向こうに並ぶ派手派手しい建物と看板(今はなき「さくらや」の看板が恋しい!)、排気ガスとタバコと食べ物のにおいが混ざり合ったような都会特有の空気、そして、そこここを、ざっざと各々の速度で行きかう人々の群れ・・・・・・あのころとにかく新鮮で刺激的だったそれらのすべてを、懐かしいと思うようになる日がくるなんて。10年間で、池袋の風景に、私の記憶がしみ込んで根を張ったのだなぁと、くんくんきょろきょろしながら思いました。

 ベビーカーを押して懐かしい雑踏を進み、JR山手線に乗って原宿で降りました。山手線も原宿も、すごく久しぶりでした。原宿で降りたのは、渋谷AXにスピッツのライブを見に行った時以来かもしれません。あのときはひとりで道に迷って焦ったよなぁとここでも思い出に浸りつつスタジオパークのほうへ向かっていると、通勤中らしき人たちが、どんどん私たちを追い抜いていきました。誰もが迷いなく颯爽と歩いていて、きっとこの人たちは自分の仕事だったり立場だったりにしっかり誇りと責任を持って働いているのだろうなぁかっこいいなぁと、しきりに思いました。実際のところはわからないけれど、私の目には、みんなそんなふうに映りました。

 スタジオパークに到着すると、すでに『ワンワンとあそぼっ!』の整理券を配布を待つ人たちが並んでいて、私たちもそこへ急ぎました。0歳から就学前までの子が対象で、娘と同じぐらいの子や、4~5歳の子もいて、行列はにぎやかでした。しばし並んで配布時間を待ち、夫に抽選を引いてもらって、入場時間が来るまで、スタジオパーク内をめぐることにしました。
 入ってすぐのところにドーモくんがいて、まずそこで写真を撮ったのですが、娘は恐がってのけぞっていました。娘はドーモくんの出ている番組をたぶん見たことがないし、大きなきぐるみだったから、無理もありません。写真を撮り終えてからは、娘のテンションをあげるべく、キッズコーナーへ直行して娘を遊ばせることにしました。
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 キッズコーナーでは、広場で『おかあさんといっしょ』の映像が流れていたり、タッチパネルのクイズがあったり、バッコロリンのボール遊びがあったり、ワンワンのおなかをくすぐって遊ぶブース、ポコポッテイトの映像が流れるブース、サボさんとゲームができるブースなど、子供の好きそうなものが盛りだくさんでした。
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 娘より大きな子たちは、あちこち散らばって夢中で遊んでいましたが、娘はまだ私や夫の手助けなしにはうまく遊べず、緊張気味の面持ちで恐る恐るボタンを押したりしていました。
 そうこうしているうちに開演時間が近づき、アナウンスに従ってキッズコーナーのすぐ横にある集合場所に移動したら、そこに数段の階段があり、娘はぱっと目を輝かせて、楽しそうに階段の昇り降りを始めました。趣向を凝らしたキッズコーナーより、階段修行のほうが断然楽しいようです。これだけたくさんのお楽しみが用意されているなかで階段に夢中の子は、娘だけでした。

 やがて抽選の番号順にイベントの行われる小さなホールへ通されたのですが、私たちの番号は最初のほうに呼ばれたため、ホールに入ってから開演まで40分近く座って待たねばならず、これがかなり大変でした。椅子はなく床にそのまま座るので大人は体が痛くなってくるし、子供たちは自由に動き回れない場所でどんどん不機嫌になってくるしで、最後の10分ぐらいは娘も情緒不安定になっておっぱいをせがみ始め、周りの子たちも娘ぐらいの子はみんなぐずり始めていました。なかには寝てしまって始まる前に退室した親子や、いやだぁいやだぁとホール中に響き渡る大声で泣き叫んでいる子もいました。
 そんななか、ようやく開演時間がきて、ピンクのポロシャツを着たおねえさんが「みんなー!こっんにっちはー!」と明るく登場し、注意事項をいくつか話して、それからおねえさんの掛け声に合わせて一緒にみんなで「ワンワーン!」と呼び、そこでついに、みんなが待ちに待ったワンワンが登場しました。ワンワンは想像以上にでっかくて、圧倒されながら娘の顔を見たら、娘もやはり圧倒されたようで、茫然とした顔で体をこわばらせてワンワンを見つめていました。
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 ワンワンのショーは15分ほどであっという間に終わりました。大人には物足りないけれど、小さな子にはちょうどいい時間なのかもしれません。3曲歌をうたってくれて、そのうちの2曲は娘もよく知っている歌でした。特に『わーお!』は大好きで、毎日テレビに合わせて踊っているので、生ワンワンのわーお!なんて見たら大喜びするかと思いきや、娘は相変わらず茫然としたままで、まったく踊ろうとせず、私が娘の手首をつかんで踊らせようとしたら、今それどころじゃない!とばかりに、力いっぱい振り払われました。
 ショー終了後、茫然としたままの娘と共にホールを出て、出口近くにあったプリクラを撮りました。娘と一緒に撮るのも初めてだったし、実は夫とも付き合ってからこれまで一度も一緒にプリクラを撮ったことがなかったので、夫とも初めてのプリクラなのでした。最近のプリクラは素晴らしくて、全員肌がつるつるに映りました。

 それから一旦スタジオパークを出て、近くのコンビニで簡単な昼食を買い、代々木公園で食べました。雀がびっくりするほど近くまでやってきて娘の食べこぼしを食べ、その様子を娘が「チッチ(たぶんチュンチュンと言いたい)、まんま」と言いながら楽しそうに目で追っていました。
 代々木公園では、ちょうどお昼休憩中のサラリーマンやOLの人たちが、あちらこちらで昼食を食べていて、あぁドラマのようなオフィス街の昼食風景だなぁ・・・と思いました。代々木公園周辺の光景は、本当にひとつひとつドラマのようでした。思えば私は、東京に出てきたばかりのころから、こういうドラマみたいな風景に憧れを抱いていたけれど、そういうドラマみたいな風景のなかに自分が溶け込むことはついになくて、結局憧れは憧れのまま、私は私のままでした。東京でドラマのような世界を生きられるような自分を目指すことよりも、東京にいながらあくまでも自分のままで生きていこうとするほうを、私は選んでいました。選んでいたというより、そういうふうにしか生きられませんでした。

 お昼ご飯を食べたあとは、もう一度スタジオパークに行って、前半に見ていないコーナーを見て回りました。連続テレビ小説や大河ドラマのセットや小道具を紹介しているコーナーや、懐かしい番組を紹介しているコーナー、今やっている番組のクイズなどで遊べるコーナー、収録を体験できるコーナーなど、どれもNHKならではの興味深いコーナーばかりでした。娘もベビーカーのなかで、それなりに楽しんでいたようでした。一通り観終わってお土産コーナーで娘にワンワンのミニ絵本を一冊買い、スタジオパークめぐりを終えました。

 帰り道は、行きとは別の電車に乗ることにしたため、行きと全く違う道を歩いて、原宿の竹下通りの近くを通りました。竹下通りのあたりを歩いている若者たちは、やはりファッションでの自己表現に余念のないタイプの人たちが多くて、普段は見ない奇抜なファッションをいろいろ目にしました。こういうのが東京の面白いところなのだろうなぁ。
 竹下通りには、オシャレ好きの妹たちを連れてきたともあったし、何を思ったか夫とふたりで来てみてへとへとになったこともあったし、それから、あれはまだ夫と付き合う前だったか、一度だけひとりで洋服を買いにきたこともありました。せっかく東京にいるのにいつも池袋ばかりではいけない、もっと行動範囲を広げなくてはという焦りから、がんばってみたのです。そのときは結局、ラフォーレで、イケイケの店員さんに勧められるままに、よくわからないトレーナーを一着買いました。ラフォーレでひとりで洋服を買ったという事実が欲しかっただけなので、実際、どんな洋服が欲しいのかなんてちっともイメージしていっていなかったのでした。そのトレーナーは今も部屋着として一年に一回ぐらい袖を通しています。

 家に帰ったのは3時半で、4時20分からの『いないいないばぁ!』を見せたら、娘はいつもと同じように楽しそうに見ていて、安心しました。もし恐がったらどうしようかと思いました。意義深い、楽しい一日でした。3人でとったプリクラがとてもうれしいので、私の最も重要な持ち物である、このパソコンに貼ることにします。
by papiko-gokko | 2012-06-11 23:54 | Diary | Comments(0)
寂しいと言わず「遊びに行くから」とさよならの代わりに「応援してるよ」と言う
 アジサイが色づき始めて、気付けば5月ももう終わり。突然ですが、この夏、東京を離れることになりました。娘が幼稚園に入るまでの2年間、島根の実家で暮らします。
 経緯を話すと長くなるのですが、書かずにいるのもなんだかもやもやするので、書くことにします。現在、両親は父の赴任先で暮らしていて、下の妹も県外で働いているため、実家には祖父と上の妹とそれから犬が住んでいます。ところが、もうじきその妹が家を出ていくことになり、これまで妹がしてくれていた犬の世話などの問題をはじめ、細かい問題がいろいろと出てきて、ゴールデンウィークあたりからずっと、どうしたものかと話し合いを続けていたものの、なかなか解決策が出ないまま、妹の出ていく日だけが刻一刻と近づいてきていました。 
 そんな先の見えない状態が、急展開を迎えたのは、つい一週間前のことです。夫が、「じゃあ、俺らが、島根へ行こうか」と、そんなことを、冗談ともまじめともとれる口調で、ふいに言いだしたのです。初めは冗談かと思って聞き流していたのですが、話しているうちに、これはどうも本気だということがわかり、両親にそれを伝えたところ、初めはそんなまさかと驚いて、特に仕事をどうするんだと心配していたものの、そのあたりのことも含め何度か話すうちに、私たち夫婦が住んでくれるならそんなありがたいことはないということになり、、話が急速に具体性を帯びてきて、先日お泊まりした際、義母にも経緯を話して理解を得て、たった一週間のうちに、私たちが一家で島根に暮らすという、急展開が決定したのでした。
 ひ孫が一緒に住み始めると知って、祖父も喜んでいるそうです。我が家は二世帯住宅で、祖父が一階、私たち一家が二階に住むことになります。祖父は耳が遠かったり体が弱っていたりはするものの、今のところ一通りの生活をひとりでできるし、リハビリのデイサービスにも通っているし、市の人も定期的に来てくれたり、近所には世話やきの叔母もいるので、私たちが祖父の生活に積極的にかかわることはなさそうですが、娘の顔を一日一度は見せに行ったり、可能なときは一緒にお茶を飲んだりぐらいの孝行はできればいいかなと考えています。

 再び実家で暮らす日がくるなんてことは、思いもよらないことだったけれど、遠くないうちになにかしら生活に変化があるかもしれないな、という予感はありました。実は今年の春あたりから、夫が転職を考えはじめていて、実際に求人情報を見たりしていたのです。もの作りの現場で働きたい、というのが夫の希望で、しかし、もの作りとなると一般的に勤め先は工場になり、工場は都心よりむしろ都下や地方のほうが多いから、転職することになったら、少し田舎にいくかもしれないな、それならそれでいいなぁ、と、ぼんやり思っていました。
 また、私自身も、娘が生まれて以来、都会で生きていく自信をどんどん失っていき、自分の生まれ育ったのと似た環境で子供を育てたいという思いが、強まってきていました。だからこれは、私にとっても夫にとっても、そしてきっと娘にとっても、ちょうどいい機会だったのかなと思っています。
 この2年間は、家賃が発生しないぶん、雇用形態や賃金にそれほどこだわらず余裕を持って仕事を選べると思うから、やりたい職種の世界でしっかり手に職をつけて、後の仕事選びに繋げていけるような働き方ができたらと考えています。それに私も、この機会に、在宅でテープ起こしの仕事を少しずつ始めてみることに決めました。2年間、私も夫もそれぞれの目標をもって働いて、できるだけ貯蓄をして、今後の暮らしの土台を作っていけたらと思っています。それに、なんといっても娘には、たくさんの自然を味わわせてやりたいです。

 島根に行くことが決まった時、想像して最も心が乱れたのは、今身近にいる大事な人たちの反応でした。
 義母は初め驚いて、やはり仕事のことを一番に心配していましたが、話すうちに理解してくれて、義祖母や義理姉たちにも、すごく上手に説明をしてくれました。それに、あとからメールで「どこにいても、元気に幸せに暮らしていてくれれば、親は嬉しいよ」と言ってくれて、その一行に泣きました。そして、結婚式のとき、しめくくりの挨拶で、司会の方から「息子さんを今日まで育てられてどうでしたか」と訊かれ、一言「とってもおもしろかったです」とほがらかに答えたことを思い出しました。私も、大人になった我が子を、そんなふうにおおらかな目で見つめられるような子育てがしたいです。
 それから、いつも一家で遊びに来てくれる友達は、最初の一行で、「それはにぱぴこたちにとって、とてもいい選択だと思う」と、言ってくれました。それから、「私たちの年代で子供がいる家族の生活環境はまだこれから固まって行く途中だと思うから、一番楽しくなかよく過ごせる道を探して、いろんなことをしていいんだ」と、言ってくれました。それはもう、できることなら、メールの文をまるごとここに書きうつしたいくらい、心打たれる、力強くて優しくて、思慮深い文章で、こんな文章を私のために打ってくれる人と私は友達になれたのだと思うと、嬉しくて誇らしくて、それだけでもう、東京で暮らした10年間が輝いた気がしました。メールを何度も読み返して、最後の「大丈夫、応援してます。きっときっと楽しいよ。」という言葉をかみしめて、前を向いていこうと、やっとはっきり腹をくくるができました。
 大学時代、もうひとりすごく仲の良かった子がいて、その子にもメールをしたら、すぐに、「あした、6月の仕事のシフトを確認しておく」と返信がきました。シンプルなそのメールに、彼女らしい、清らかでためらいのない友情の形を感じて、かっこよさにしびれながら、きっとこの子とも、距離が離れたからと言って、関係性が変わることはないだろうと、その短い文面から、確信することができました。
 本当に、東京での出会いは、夫との出会いも含め、宝物なんて言葉じゃまだまだ足りない、私の人生の芯となり翼となるような、かけがえのないものです。だから、離れることになったけれど、私が東京に出てきたことは、文句なしの大正解だったと、胸を張って言えます。

 この3人のうちの、誰か一人でも、一言目に「寂しい」という言葉を言っていたら、私は、引っ越すまでも引っ越してからも、何度もその言葉を思い出して、胸がつぶれそうになったことでしょう。だけど、私の大事なひとたちは、その一言を、言わないでくれました。私が逆の立場だったら、一言目にも二言目にも、寂しいと、言ってしまうに違いありません。だけど、私の大事な人たちは、そんなやわな人たちではありませんでした。人を送り出す姿勢を、学んだ気がします。
 きっと、義母も、ふたりの友達も、自分の生き方に、きちんと、自信を持って暮らしているのだと思います。自信をもって暮らすということは、人を見下し高みに立つとでも、派手な自慢話が尽きないことでもなく、自分の人生を冷静に見つめて、そのなかに、自分はこのやり方でいいのだと確信できる何かを見出しながら生きていくことのできる人のことだと思います。そういう生き方をしている人は、人を気持ちよく送り出すことのできる人なのだと思います。私もそんなふうに、なれるだろうか。

 長い日記になりました。東京を離れることになって、東京への想いが、毎日毎日、あふれてきます。10年住んで、少し疲れてしまったけれど、10年前より、ずっとずっと、愛しているのです。そんな想いも、これからしばらく、ここに書き遺していくつもりでいます。生活が変わることへの、覚悟はいまいちできていないけれど、不安より希望のほうが今は、大きいから、きっと大丈夫です。

 今日は、メールをくれたその友達がいつものように一家で遊びに来て、いっぱい遊びました。子供ちゃんが、娘の絵と、それから私の絵を描いてくれました。私の絵を描いてくれたのは初めてで、あとちょっとで泣いてしまうところでした。大事にします。娘は子供ちゃんのことが大好きで、抱きついたり追いかけまわしたり真似っ子したり、あまりにしつこかったり積み木を崩してしまったりして子供ちゃんのご機嫌を損ねてしまったときも、とにかくずっと楽しそうにしていました。そんなふうに大はしゃぎで遊んだあと、帰り際に子供ちゃんから、「どうして引っ越しちゃうの?」と聞かれて、言葉に詰まりました。なんて説明したらいいのだろうな。引っ越しって、引っ越すほうも引っ越されるほうも、どんな理由であれ、子供にとっては理不尽な出来事です。子供ちゃんは幼稚園があるから、平日は無理だけれど、引っ越す日まで、できるだけたくさん会って、娘と子供ちゃんを、たくさん遊びたいです。
by papiko-gokko | 2012-05-27 00:18 | Diary | Comments(0)
家族という単位のなかで幸せは探すものではなく守るもの
 バウンサーをキッチンへもってきて、これまでベビーベッドで泣かせたまま大急ぎでやっていたキッチンでの家事を、洗濯を干す時と同じように、娘に見せながらマジシャン風にやってみたら、娘が喜んでくれました。少し前までこうはいかなかったので、日に日にものへの関心が高まってきている証拠なのでしょう。とてもありがたい成長です。「ほらぁ、ビールのグラスー!」「みてみて、いびつなにんじんー!」と、なにか手に取るたび娘のほうを振りかえって見せながら、今にも踊りだすような足取りで、ご機嫌に作業を進めていると、娘もどんどんご機嫌になって、「あふう」「ひゃえい」「とぅうあ」と、しきりに話しかけてくれました。特にニンジンを見せた時には、テンションが跳ね上がっていました。見せながらの作業は時間はかかるけれど、泣き声を聞きながら焦ってやるより、ずっといいです。あまりに泣くので、その状況の甘えてこれまで料理はほとんど夫にやってもらっていましたが、これからは娘とともにがんばろうと思います。
 赤ちゃんの心を掴むコツは、生活のなにもかもを遊び発掘の場と捉え、おもしろいものないかと常に五感を研ぎ澄まし、全身全霊を注いでパフォーマーになりきることなのだと学びました。NHK教育の幼児向け番組には、素晴らしいパフォーマーが揃っていて、次々に子供心をくすぐりそうなパフォーマンスが繰り広げられるので、大変勉強になります。娘が目を見開くと、私のなかでも何かが花開き、楽しくて仕方ない気持ちになります。娘にとって最高のパフォーマーになれるよう、日々探究心を持って暮らそう。

 一昨日の餃子パーティーで、ひとつ印象にのこった会話がありました。実家というものについてです。私以外の誰もが、「実家」を心地よい場所として捉えていたことに、驚きました。子供のいる友達は出産で実家に帰った時、家に戻るのが憂鬱で仕方なかったそうです。私は出産で帰らなかったし、帰ったとしても、そうはならないでしょう。
 私にとって実家は、今住んでいる家以外で、当たり前に帰ることのできる唯一の場所であり、思い出のつまった、かけがえのない大切な大切なものですが、だけど、そこが自分にとって居心地のよい場所なのかということになると、考え込んでしまいます。父の転勤やら子供たちの大学進学やらで、実家とはいえ全員がそこに揃って暮らしていた期間は案外と短く、祖父母を覗いて常に住んでいる人が少しずつ変化し続けている家だから、家全体がなんとなく雑然としていて、落ち着ける場所という感じではないのです。
 それに、例え両親が常に実家にいたとしても、実家で長期間一緒に過ごしたいかというと、それもまた、考え込んでしまいます。両親のことは疑いようもなく愛しているけれど、愛しているからこそ、平和に愛し続けるために、常に少し距離を置いていたいというのが、正直な気持ちです。父も母も私も感情の起伏が激しいので、一緒にいるとつい苛立ってケンカになりやすく、誰より大切にしたい人なのにうまく大切にできなくて、むしろ傷つけあってしまって、そんな自分がもどかしく、疲れてしまいます。大学進学で親元を離れた時、どうしようもなく寂しかったけれど、同時に、実家にいた時には得られなかった静かな心を手に入れて、少しほっとしている自分がいました。離れて暮らしていれば、些細なことで無駄に傷つけあうことなく、穏やかな心で互いを想いあっていられます。
 愛していることと、一緒にいたいと思うこととは、私の場合、必ずしも、イコールで結ばれません。身近にいる人を正しく大切にするということが不得意なせいで、家族を含め、愛している人とは少しだけ距離を置いて暮らしたいと感じる私が、それでも絶対に離れたくないと感じる夫と娘は、むしろ特殊な部類なのかもしれません。愛しているのに一緒にいたくないって、自分勝手で寂しいことのような気もして、心の奥がちくっと痛むけれど、自分が人生を共にすることで幸せにできる人と、そうでない人がいて、今私にとって、幸せにできる人は、娘と夫なのだと思います。自分がそばにいても幸せにできるわけではない人とそばにいてその人生に寄り添うのはむしろ苦しく、だから、離れていくのかもしれません。そして、離れているからこそ、いつだって幸せでいてほしいと願う想いは切実です。遠くにいてもいざというときにはとんでいくから、それを自分のなかで約束することで、離れて生きていることの痛みを、今は薄めることにします。ああ、なんだか書いているうちに、大げさな内容の話になってしまった。

 昨日、娘を抱っこひもで抱っこして、近くの赤ちゃん用品店へいき、そこではじめて、節電の現状を見ました。今、東京のお店は、あんなに暗いのか。「こんなの東京じゃないみたい、ショック、悲しい」と言ったら、「そうかな、むしろ新鮮で楽しいけど。でも田舎の人はそうかもね。」と言われました。何年東京に住んだところで、生まれながらの都会っ子と同じ感覚では生きられないようです。「死にたいくらいに憧れた花の都大東京~♪」と口づさみながら荷づくりした、憧れの東京。東京にはやっぱり、キラキラギラギラ、輝いていてほしいと、思ってしまいます。でももう、そんな東京には戻らないのかな。恐ろしいことが起こった以上、時代が変わったのだと、受け入れるしかないのかな。
by papiko-gokko | 2011-04-19 16:46 | Diary | Comments(0)
吉祥寺めぐり
 ようやく涼しくなったので、夫とバスに乗ってひさびさの吉祥寺へ。今回の主な目的は、私のつくろうとしている赤ちゃん用ニットの毛糸と、夫の絵本づくりのための画材を仕入れるため、ユザワヤへ行くことでした。新居から吉祥寺へいくのは初めてだったので不安だったけれど、最初バス停がわからなくてちょっと迷ったほかは、スムーズに到着することができました。休日のバスは、のどかでいつも眠たくなります。
 到着したのがちょうどお昼頃だったので、お昼ご飯を食べました。せっかく吉祥寺なのだから、隠れ家的お洒落カフェにでも入ればいいのですが、隠れ家は隠れているのでわからないし、中には大変分かりやすいところにある隠れ家的雰囲気のお店もあったけれど、それはそれで、ひねくれものの私と夫が、店長のこだわりに満ちているであろう店内の雰囲気や料理を素直に楽しめる自信がなくて、ひと通り商店街を歩いた結果、安いチェーン店に入りました。その店内は10代の若者で溢れていて、ワイワイガヤガヤ学校の食堂のようで、私たちはそそくさと食べてお金を払い、「今度からはおにぎりを握って行って、井の頭公園で食べようね」と硬く誓いあいながらお店を後にしました。私も夫も、外食は苦手です。私は食べきれないかもしれない恐怖に思考が埋め尽くされるし、夫は店員やお客さんの些細な言動ですぐ心が折れて、美味しく食べられないので。楽しく大らかに外食できる夫婦が、羨ましいです。子供が生まれても、どこかの広場で三人で、いつもおむすび食べよう。夫がおむすび握って、私はおしぼり搾って行こう。

 落ち着かない食事のあとは、ユザワヤへ直行し、まずは夫の画材を選びました。買ったのは、30色クレヨンと、20色クレパスと、18色水彩絵の具です。30色クレヨンだなんて、夢のよう!
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 子供のころは、小学校の入学時に買わされた12色か16色のものが当たり前で、たまに文房具屋さんで30色も40色も入った鮮やかなクレヨンや色鉛筆を見かけても、そんなぜいたくなもの買ってもらえるとは思わず、世界地図の外国を見るような心地でただうっとり見惚れていたものだったのに、それを大人になるとこうしてさらりと買えてしまうのだから、大人になるっていいもんだなぁと思います。当時はなんとなく、もっととんでもなく高価ものだと思っていました。
 クレヨンもクレパスも、箱を開けると懐かしい匂いがしてきて、私も絵を描きたくなりました。小学校で私の使っていたクレヨンやクレパスはやたらとすり減っていて、巻き付けてある紙は破れ、本体はポキポキに折れ、失くしている色もあったりして、1年生の終わりごろにはすでにもうぼろぼろでした。男の子には私と同じようになっている子も結構いたけれど、女の子は大抵きちんときれいに揃っていたので、どうすればそんなふうに使えるのだろうかと、不思議に思ったものです。絵を描くのは大好きだったから、あんなにぼろぼろに使う子じゃなかったら、30色のクレヨンを、買ってもらえたのかも。

d0038776_2202949.jpg 画材選びあとは、毛糸を選びました。赤ちゃん用毛糸のコーナーがあったので、私がそこでクリーム色と桃色を手にとっていたら、少しあとからやってきた夫が、「もっとはっきりした色がいいと思う」と、赤やら紺やら黄色やら、赤ちゃんっぽくない色合いの毛糸を次から次へと買い物かごへ入れていきました。どの色を、何に使おう。数種類のかぎ針を3本と細い毛糸用の棒針も買ったので、準備は万端です。少なくとも、ベストと帽子とソックスぐらいは、がんばって編みたいなぁ。かぎ針編みの基本を、まずは訓練しなくては。棒針編みのほうも基礎しかしらない上に1年間のブランクがあるから、思い出しつつ勉強しなくては。そしてとびきり可愛いのを編もう。

 ユザワヤで満足したあとは、井の頭公園へ行きました。本当は、タイ焼とお茶でも買ってからいきたかったのだけど、今、ユザワヤが改装中のためお店の場所を移転して営業していて、その影響で道に迷ってしまい、公園に辿り着くだけで精一杯でした。秋らしい空の下まだ夏の気配が残る公園では、かろうじて、ツクツクボウシが鳴いていました。
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歩き疲れてベンチで腰をおろし、しばらく池と緑をぼんやり眺め、そばの枝にとまったトンボや池を通り過ぎていくカモを、16倍ぐらいにして写真に収めようとしてことごとく失敗し、家族や恋人同士で賑わうアヒルのボートを目で追い、近くのベンチに絶妙の距離感で腰かけてソフトクリームを食べる初々しい中学生カップルをチラチラニヤニヤ見つめ、その他とくにすることもなかったので、やっぱりどこかで甘いものを食べようと、井の頭公園を後にしました。つくづく、お昼ご飯を井の頭公園で食べたらよかったなぁ。今度からは絶対にそうしよう。レジャーシートを持ち歩く人になろう。
 
 井の頭公園を出たころには、疲れがピークに達していて、お洒落でも独特でもなくていいから、とにかく落ち着いた雰囲気の喫茶店で休みたいと、デパート内の喫茶店をめざすことにして、しかしデパートになかなかたどり着けず、ついにケンカになりました。ケンカになったというか、思い返せば私がいきなり唐突に、ぷつんと切れてしまったような気がします。とにかく疲れて疲れて、私に負けず劣らず方向音痴の夫にイライラしてしまい、限界だったのでした。
 もういい!と、夫を追い越してがむしゃらに歩いているうちに、デパートに辿り着き、しかし2階のカフェも3階のカフェも満員で、私がますますカァアとなっていたら、夫が「屋上にいこう」というので、カアァとなったまま、屋上へいきました。するとそこに、混んでいなくて落ち着いた雰囲気の、オーソドックスな喫茶店があったのでした。そういえば、デパートの屋上っていうのは穴場なのだと、いつか夫が言っていたっけ。その喫茶店で私はバナナジュースを、夫はコーヒーを頼んでようやく落ち着き、体が休まるにつれ、機嫌もなおりました。喫茶店の外には、デパートの屋上らしく、100円で動くタイプのレトロな遊具がいくつも置いてあって、小さな子供たちが走り回っていました。子供って、なんの理由もなくひたすらよく走る生き物だなぁ・・・と、思いながら、自分の子育てに想いを馳せました。あんなふうに走り回る子供に、私はついていけるかな。
 
 あまりにも疲れて、一度はもう帰ろうかという話もでていましたが、デパートの屋上ですっかり回復したので、再び吉祥寺巡りを再開しました。夫の行きたがっていたナチュラルキッチンでスプーンやフォークなどを買い、私はボタンの形をした陶器製の磁石を買いました。家に帰ってから冷蔵庫にくっつけてみたら、あまり強力な磁石ではないらしく、ふぁっとしかくっつかなかったけれど、可愛いからそれでいいのです。
 それから、私の行きたかった、絵本とおもちゃ屋さんのお店にも行きました。『おばあちゃんの玉手箱』と『NIKITIKI』の2件です。どちらも同じ通りにあって、木のおもちゃがたくさん置いてあり、「おばあちゃんの玉手箱」のほうには絵本もたくさん揃っています。木のおもちゃは、見れば見るほど、触れれば触れるほど可愛くて、しかし、おままごとセットなどどれもこれもが、割と普通に本物の良い食器が買えるぐらい立派なお値段で、憧れと諦めのため息が何度も漏れました。よし、木のおもちゃももちろん買える範囲で買ってやって、でもそれだけじゃなく、スーパーのパックとか変形したタッパーとかでも楽しく遊べる子供に育てよう。夫はおもちゃにはそれほど感動していない様子でしたが、親指に乗るサイズの小さな木彫り動物に感動して、「こういうの彫りたい」と言っていました。次は彫刻を始める気なのだろうか。どうせならおもちゃを作ってほしいのだけど。

 一時は険悪なムードになったものの、お互いの行きたいところへ行けたので最終的には満足して、最後にタイ焼を買い、タイ焼を食べながらバスを待ち、日が傾いたころバスに乗って、家路につきました。バスのなかでは、かっくんかっくん眠り続けました。目を覚ましたらお腹の子がぽこぽこ動いていて、安心しました。ハードな一日、元気でいてくれてありがとう。明日は家でのんびりと、夫の誕生日を祝おう。
by papiko-gokko | 2010-09-19 22:35 | Diary | Comments(0)


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