うわのそら papiko.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

日記と短歌


by papiko

タグ:思い出 ( 146 ) タグの人気記事



 確かな日付はもう忘れてしまいましたが、秋の終わりに、チューリップの球根を植えました。私の誕生日に母からもらった鉢植えが、夏に花を枯らして以来、謎の雑草の住処になっていたので、それを全部取り除き、土も入れ替えて、心機一転の再スタートです。赤と黄色と白と紫とピンクの球根を、長女と次女にそれぞれひとつずつ、全部で10個の球根を買ってきて、二つの鉢に5個ずつ植えさせました。次女は1個だけ植える前に踏んでしまったらしく球根がちょっと潰れたので、それは咲かないかもしれません。奇跡が起きて、なんとか咲いてくれないだろうか。どんな具合に植えればいいのか、一応ネットで調べてから植えたものの、自信はまったくありません。最初から咲いている花の苗を植えた前回と違って、まだ土だけで何も見えないので、本当に芽が出るのかどうか不安で、掘り返して球根の具合を確かめたくなり、心の中で、THE YELLOW MONKEYの『球根』を歌いつつ、表面の土をちょっと撫でてみたりしています。子どもたちは、土だけの鉢に向かって、無邪気にじょうろを取り合いながら水をやっています。春、長女が小学生になるころ、咲いてくれるかな。咲いてくれますように。

 今週の土曜は、前々から長女の行きたがっていた公園に行ったり、長女の待ちに待っていた小学校制服を買いに行ったり、お店の前を通るたび長女が行きたがる回転寿司を食べにいったりして、なんだか長女デーになりました。それなのに、夜に悪い態度でご飯を食べて夫に叱られ、なんとなくへそを曲げたまま眠り、そしてひさしぶりの夜泣きをしました。夜泣きをして寝ぼけながら私になすりついてくるその様子は、もっともっと小さかったころの長女とぜんぜん変わっていなくて、ああまだ小さい子どもなんだなぁと、愛しくなりました。最近、本人が小学1年生になりたい気持ちでいっぱいになっているものだから、私もつられてもう長女はほとんど小学1年生みたいな気分になりそうになっていたけれど、やっぱりまだまだ、甘えんぼの幼児です。今日の寝かしつけでは、フランソワーズの『わたしのすきなもの』を読み、最後の「あなたのすきなものはなに?」というページで、すぐに長女が「おかあさん!」と抱きついてきてくれて、幸せな気持ちになりました。そのあと、スーパー甘えんぼの次女も慌てて抱きついてきて、ごろごろ幸せだんごになりました。いつかは大きくなってしまう子どもたちが、こうして甘えてきてくれるうちは、たっぷりどっぷり甘えさせたいなと思います。

 夏はシャワーで済ませていましたが、寒くなってきて、お風呂に入るようになりました。お風呂は私が、今年の春に他界した祖父のことを一番よく思い出す場所です。きっと、幼いころよくお風呂に入れてもらっていたのでしょう。私や妹の首を洗うときに『上を向いて歩こう』を歌って上を向かせていたこととか、タオルで湯船に大きなタコ入道を作ってくれたこととか、祖父が死んでから、ますますよく思い出すようになりました。
 今日も湯船で子どもたちと、おにぎりを握るみたいときに両手をすぼめて重ね合わせて手の中に空気を閉じ込め、その手をお湯の中に入れてから開いてあぶくをぶくぶくっと出す遊びをしながら、ああこれも祖父に教えてもらった遊びだなぁと思い出しました。手が大きい祖父の出すあぶくはひときわ大きくて、どうやったらあんな大きな泡が出るのだろうかと、必死で真似したものでした。あのころはまだ、両手を合わせた空洞に空気を閉じ込めているからあぶくがでるのだという仕掛けが分かっていなくて、祖父はかならず最初にパンパンと大げさに手を叩いてから手の中に空気を閉じ込めていたので、手を強く叩いたほうが大きな泡が出るのかと思って、私も妹も無意味にパチパチ手を叩いてやっていました。だけどどんなにやっても、出てくるのは指先ほどの小さなあぶくばかりでした。手を叩くのは手品っぽく見せるためのフェイクであって、泡の大きさとは関係なく、大きな泡を出すためには空気がたくさん入るように手をすぼめればいいのだと分かったのは、祖父とお風呂に入らなくなってからのことだと思います。
 そんなことを、今日子どもとお風呂であぶく遊びをしながらふと思い出して、書き留めておきたくなりました。長女はまだ、上手に泡を出せません。祖父の出していたでっかいあぶくを、見せてやりたかったな。あんなでっかいあぶくを、私は未だに出せません。
by papiko-gokko | 2016-11-13 23:54 | Comments(0)

 義母に買ってもらった、長女のランドセルが届きました。ピカピカの赤いランドセル。さっそく背負って、飛び跳ねて喜んでいます。次女はどうして長女にしかないのかが理解できずに大泣きしましたが、なんとか言い聞かせて納得させました。年中のころからやっているドラゼミからも、入学に向けた特別号が届いたりして、長女の気持ちは日に日に盛り上がってきています。
 夏休みが明けてから、入学前健康診断だったり、学用品注文だったり、給食体験だったりと、小学校へ出向く機会もちょこちょこ増えてきました。入学前健康診断へは私も同行し、初めて体育館に入りました。体育館なんて本当に久しぶりで、広さと懐かしさに圧倒されました。親が体育館で学用品などの説明を受けているあいだに、子どもたちは小学生のお姉さんに連れられて健康診断を受け、40分くらいで帰ってきました。長女の行く小学校へは、長女の通っている幼稚園からだけでなく、いろいろな幼稚園、保育園から子どもたちが集まってくるので、長女も、ほかの子たちも、体育館に集まったたくさんの知らない顔ぶれに、緊張の面持ちでした。健康診断に行くために親のそばを離れ、お姉さんに連れられて体育館を出て行くとき、長女は固い表情ながらも手をふって気丈に出て行きましたが、なかには不安のあまりうつむいて涙をぬぐっている子もいて、その子やその子のお母さんの心情を思うと、胸がぎゅーっとなりました。
 私も、健康診断に行くまでは、もう1週間前ぐらいから緊張していたのですが、いざ始まって知らない顔が大勢が集まっているのを見ると、むしろ緊張がほどけて、ほっとしました。小学校は幼稚園よりもずっと規模が大きいから、もろもろ秩序があってシステム化されている感じで、私のように人と絡むのが苦手な人でも、生きづらさを感じずにやっていけそうな気がしたからです。数人の知っている顔のなかにいるよりも、大勢の知らない顔のなかにいるほうが、私はやっぱり、楽で落ち着くなぁ。
 これからもいくつかの小学校関係行事がありつつ、親子ともども、徐々に小学校との距離が縮まっていくのでしょう。希望をもって、進んでみよう。

 久しぶりに椎名林檎を聴いてみたら、一瞬で体中の血が騒いで慌てて音量を上げるくらい素敵でした。『虚言症』の「しかし何故にこんなにも 眼が乾く気がするのかしらね」という出だしを聴いたとたんに、ぶわーっと意識がタイムスリップして、19歳のとき、進学で上京して初めて住んだ所沢のワンルームマンションや、毎日駅に向かって一人で歩いたプロペ通りが、目の前に広がります。私にとって、所沢、とくにプロペ通りといえば、椎名林檎です。島根から出てきたばかりの私には、プロペ通りの煌めきが十分すぎるほどの大都会で、すっかり都会の絵の具に染まった気分で、人混み(当時にとってはとんでもない人混み)をかきわけガシガシ歩きながら、ヘッドフォンで椎名林檎を聴いてました。あのころの私と、今の私は、本質的には何も変わっていないらしいことを、久しぶりに聴いた椎名林檎に気づかされます。そして、変わっていないんだなというその感覚に、なんとなく救われています。あのころの私の痛々しさが、今の私には、とても大切です。馬鹿な思い上がりをもてあましてプロペ通りを歩いていたときの私を、今、全肯定してあげたい気持ちです。無意味によく行っていた小さなCDショップとか、週1、2回くらい夕食の調達をしていた吉野家なんかに、あのころみたいに一人でふらっと立ち寄ってみたりしたいな。生まれて初めてのひとりぼっちを経験していた19歳の私は、自由で、いきなりあまりにも自由すぎて、何をしたらいいのかまるで分からなくなって、結局、何にも手を伸ばせず、何もうまくやれないまま、ネットばかりしていました。そこから私は、何も変わっていないのです。結婚しても、子どもができても、あのころの私は今も私のなかにいて、相変わらず何をしたらいいのか分からずうまくやれないまま、パソコンの画面を眺めているのです。
by papiko-gokko | 2016-10-25 23:20 | Comments(0)

さよなら2014年


 昨日から夫が長期休暇に入り、我が家もいよいよ年末モードになりました。今日は車で少し遠くの大型店に行き、横浜への帰省に向けてお土産を買ったり、新年を迎えるにあたって私と夫もひさびさに新しい服を買ったりしました。それから、来年になると、長女の健康診断や一日入園など、幼稚園に行く日がちょくちょく出てくるので、長女の上履きも買いました。まぶしいほど真っ白な上履き、見ているだけでどきどきします。
 家に帰ってからは、近所のお店で大きな段ボールをもらってきて、帰省の荷造りをしました。子連れ移動だし荷物がそれなりに多いので、大半の荷物は宅配便で送ることにしたのです。あれもこれもと詰め込んで、集荷の予定時刻ぎりぎり間に合いました。集荷のあとは、長女と次女のおそろいリュックに、お菓子とおむつを積めたり、私の鞄に、除菌ティッシュやら、新幹線で遊ばせるために買っておいた折り紙とめいろゲームとノートを積めたりしました。あとは明日、最終チェックをするだけです。

 夜、子どもたちを寝かしつけ終えてリビングに行くと、テレビで『HEY!HEY!HEY!』のスペシャル番組をやっていて、「懐かしい!」を連発しながら見ました。出演していたのが主に90年代にヒットを飛ばした人たちで、当時のトーク影像なんかも流れて、90年代の音楽シーンをこよなく愛する私にとってたまらない内容で、一緒に見ていた夫に「これ、中学んときクラスでこの替え歌が流行って」とか「高校のときの先輩がこの人の大ファンで」とか「あああ受験のときこれを聞いて」とか、興奮気味に語りながら、中高時代の思い出に浸りました。塾のあと友達とCDレンタルショップに行って、シングルランキングの1位から順番に借りまくって、自分で曲順を練りながらMDに録音していたあのころ、音楽を聴くのが楽しかったなぁ。やはり、自分の青春時代に聴いた音楽は格別です。
 ほとんどの曲が、もう20年近くも前だったりして、「そうか、もう90年代って、普通に懐メロなんだ・・・」と夫が切なそうにつぶやいていました。ヒット曲として聴いていた当時と、自分の中身はほとんど何も変わっていないのに、あの時代からもう20年近くも経っていて、90年代が懐メロになっていて、いつのまにか自分も30代で2児の母で、大人として生きているということの、一つ一つの事実が、頭の中でうまくつながらなくて、そのちぐはぐさが、容赦ない時の流れを際立たせ、そこはかとなく恐怖を覚えます。そして、音楽を聴きながら、20年というまとまった過去を、もう明確な思い出とともに振り返ることができるくらい、自分が生きてきたんだということにも、驚きます。
 なんといっても、感動したのは、浜ちゃんが、出演したたくさんの90年代を代表するアーティストたちとともに、『WOW WAR TONIGHT』を歌ったことです。なにしろ当時、中学1年生だった私は、雑誌の切り抜きを集めるほど浜ちゃんの大ファンで、「HEY!HEY!HEY!」は毎週かかさず見ていたし、『WOW WAR TONIGHT』はあまりにも好きすぎてCDを2枚買って、シングルCD用のケースに入れて、大事に大事に眺めていたのでした。だから、まさかの展開に感動して、思わず録画ボタンを押しました。あのころから確実に歳を重ねて、それぞれいろいろな人生経験を積んだ人たちが、かつて出演した人気番組のステージに集まって、ダウンタウンを囲んで、『WOW WAR TONIGHT』を、楽しそうにノリノリで盛り上がって歌っている姿は、その数分だけ、ミリオンセラーだらけだった90年代の賑やかさが蘇ったようで、すさまじくて、胸が熱くなりました。もうとっくに壊れたと思っていた自販機が、何かの拍子にシピピッと通電して強烈な光を放ち、その一瞬の光で無数の思い出が照らし出されたような、そんなまぶしさでした。

 番組が終わったところでちょうど次女が泣き出し、再び寝かしつけに寝室へ行くと、そこには子どもたちがいて、テレビを見ている間ちぐはぐに感じた人生のシーンひとつひとつが、ふたつの寝顔に雪みたいに溶けていき、時の流れに恐怖を感じていた気持ちが、すうっと消えました。そうだ、2014年が終わろうとしている今、私には、この子たちがいるから、なにも怖くない。20年という月日が、この子たちのいるこの場所に、私を連れてきてくれたのだから、それは、ちっとも怖いことではない。私はこれからこの子たちをいつか自立させるために、たくさんすべきことがあるし、してやりたいことがあって、容赦ない時の流れに、ひるんでいる暇なんてない。そう思えたとき、愛してやまない90年代の音楽たちが、私のなかで初めて、「懐メロ」という言葉に、しっくりと当てはまりました。

 そんなわけで、明日はきっと早く寝るので、これが2014年最後の日記になります。今年、この日記を読んでくださった方、ありがとうございました。今年も書きたいことを書き続けることができて、満足です。よいお年を。
by papiko-gokko | 2014-12-30 02:02 | Diary | Comments(0)

 妊娠17週目に入り、今日は1ヶ月ぶりの妊婦健診でした。エコーの影像のなかで、お腹の子は手足に活発に動かしていて、3D影像では、映ったと思ったら、まるでそれが分かったみたいに、くるっとこちらに背中を向いてしまいました。とにかく、元気そうでよかったです。もしかしたら性別が分かるかなと思ったのですが、それは次回、20週を過ぎないと分からないとのことでした。どきどきします。
 今回の妊婦健診が終わったら、当初の予定では娘にも正式に教えるつもりだったのですが、なんとなくためらってしまって、結局まだ話していません。理由の一つは、この1週間で急激にトイレトレーニングも卒乳も進んだところなので、このタイミングで動揺を与えてしまって、せっかくがんばったことがまたできなくなったらお互いにしんどいよなぁと思い、もう少しこの成長が定着するまで待とうと決めました。
 躊躇しているもう一つの理由は、私自身の思い出にあります。上の妹のときのことはまったく覚えていないのですが、下の妹がお腹にできたことを知らされたときのことはぼんやり覚えていて、ある日突然に父から「お母さんのお腹に赤ちゃんができたよ。10月に生まれてくるよ」と聞かされました。そのとき母は気だるそうに壁にもたれかかって座っていて、だけどお腹はまだちっとも大きくなくて、そのとき5歳の私が抱いた感情は、何でいきなりそんなウソを言うんだろうかという疑心と不安と苛立ちで、喜びではありませんでした。だから聞いてすぐ、半分茶化すように「うそだうそだ、おなかがぜんぜん大きくないもん!」と言い返し、そのうち大きくなるから分かると説明されてもやっぱり信じられなくて、「そんなの、お腹にボール入れたら誰でも大きくなるもん!」と突っぱねて、まじめに聞こうとしなかったのを覚えています。
 それは、母が痛い思いをして赤ちゃんを産むというイメージへの拒絶反応だったのか、家族が増えることへの抵抗感だったのか、いまとなっては分かりません。ただ、あのとき、母のお腹がもう少し大きければ、もしかしたら、ちょっとはまた感じ方が違ったのではないかと思い、娘には、はっきり分かるようになるまで言わないことにしました。まだ娘は2歳だから、5歳だった私のようには複雑にあれこれ考えたり疑ったりしないだろうけれど、2歳ゆえの敏感さ繊細さは計り知れないものがあるから、やはり慎重にタイミングを見極めなければと思っています。とはいえ、遅くとも次の検診のころには、さすがに伝えるべきなのだろうな。たとえ伝えたとき喜んでくれなくても、私だって下の妹が生まれてからはメロメロだったから然したる問題はないのだと思いますが、できることなら喜ぶ顔が見たいです。
d0038776_2205725.jpg
 検診を終え、午後はヒットくんハウスを作ったりして過ごしました。昨日の状態に、テーブルと、イスと、ベッドと、それから冷蔵庫とテレビを付け足して、昨日より部屋っぽくなりました。テーブルは段ボールとストロー、イスは簡単に折り紙で折り、ベッドも段ボールに折り紙を貼り付けただけの簡単なものです。一番がんばったのは冷蔵庫で、ティッシュケースの端を切ったのを元にして作り、真ん中に衝立を入れて二段式にして、ひんやりした感じを出すため内側にアルミホイルを貼りました。へんてこな間取りだし、ガサツな部分があちこち目立ちますが、腰が痛くなるほど熱中して作って、すごく楽しかったから、これで満足です。私が熱中しているあいだ、娘もわりと長い時間、そばでノリやらハサミやら使って一人遊びをしてくれていました。娘との過ごし方に行き詰まったときは、おもちゃ作りに限ります。ひとまず、ヒットくんハウスはこれで完成。楽しかった!
by papiko-gokko | 2013-08-07 22:51 | 手作り | Comments(0)

 娘が絵描き歌にはまっていて、毎日「おえかきうた、しようよー」と言いながらテーブルに紙を広げます。とくにお気に入りの絵描き歌は「棒が一本あったとさ」で始まるあの有名なコックさんと、ドラえもんと、うーたんで、一日でコックさんを10人、ドラえもんを5人、うーたんを4人描きました。一方、タコ入道とアヒルとつるさんはまるまるむしの絵描き歌はいまいちの反応で、一度描いたきり、リクエストはありませんでした。
 絵描き歌は、歌いながらひとつの絵ができあがっていく感じがすごく不思議で愉快で、私も子供のころ、よく描いてもらっていました。タコ入道とかアヒルとかつるさんはまるまるむしとか、そういう古い絵描き歌を教えてくれたのは、たしか父方の祖母だった気がします。祖母に絵を描いてとお願いするといつも、裏が白いチラシに、昔ながらの絵描き歌と、それから、日本人形みたいな目にほっぺたのふっくらしたおちょぼ口の女の子の絵を描いてくれていました。そんなふうに描いてもらっていたのは、たぶん幼稚園か小学校低学年ごろまでだったのだろうけれど、どういう絵だったか、どんなタッチで描いていたか、いまもはっきり思い出すことができます。祖母の描く女の子は、母の描くキャンディーキャンディーみたいな女の子とはずいぶん趣きが違っていて、それがとても新鮮でした。
 父がよく描いていたやけに写実的な狼の絵とかヒョウタンツギの絵もしっかり覚えているから、いま私がこうして描いている絵も、娘の脳裏に焼き付いていくのかと思うと、急になにを描いたらいいか分からなくなります。とりあえず、娘にうけそうな絵描き歌をほかにもいろいろネットで調べて覚えることにします。

 今日は母と娘と一番大きなショッピングセンターへ買い物に行き、娘の洋服や帽子を買ってもらいました。嬉しいです。娘が生まれてからずっと、娘にかわいい洋服を着せるというのが、大きな楽しみの一つになりました。最近は娘も自分の着るものに興味が出て、新しいワンピースなど着せると嬉しそうにくるくる回ったりするので、洋服を着せるのがますます楽しくなりました。買い物が終わったときちょうどお昼前だったので、ショッピングセンター内の飲食店で久しぶりに外食をしたら、やっぱりすごく大変で、外食はもうとうぶんしなくていいやと思いました。春が来て暖かくなったら、またお弁当を持って、娘と公園で食べたりしよう。
 買い物から帰ったあとも、なんだかんだと出たり入ったりして、あっという間に一日が終わりました。明日はゆっくり過ごしたいところですが、母がいるうちにやっておきたい家のことというのが、地味にいろいろあって、明日もまたばたばたしそうです。せめて夜は、心を落ち着けるために読書をすることにします。気候のせいもあってか、最近自分の心がどんどん内に内に向いていて、わけのわからない閉塞感で息苦しくなることが多くて、だからせめて、ドラマとか本とか、そういった家で楽しめるエンターテインメントで、娘との生活以外の世界というものを、頭の中に持つようにしなくはいけないと感じています。だからしばらく、育児以外の本を読むことにします。それから、家でできる運動も毎日しようと思います。あれこれいろいろ不安は尽きないけれども、前向きな思考で生きる努力を惜しむまい。
by papiko-gokko | 2013-02-06 00:58 | Diary | Comments(0)

 今日もお昼寝のあと、車に乗って3人で昨日と別の大きな公園へ行き、遊具でたくさん遊びました。ここへも子供のころよく来ていて、小学2年生のとき、子供だけで遠足をしようと計画を立て、近所の友達と2人で、お弁当を持って歩いて行ったこともあります。子供の足では結構な距離があったはずだし、道もよく分からなかっただろうに、どうしてたどり着けたのか、今でも不思議です。どちらが言い出したのか、その日は本当の学校の遠足じゃないから普通のお弁当じゃなくオニギリ弁当を作ってもらうことになっていて、公園についてすぐ、友達とわくわくお弁当のふたを開けたら、私のは大きなオニギリがふたつ、友達のは小さなオニギリが6つ入っていました。その、普通のお弁当よりもずっと大きなオニギリにかじりついたら最高においしかったこと、無事家に帰ってから、買ってもらったばかりだったちびまる子ちゃんの日記帳の1ページ目に、その日の長い長い冒険記を書いて、自分の書いた文字の多さにうっとりし、何度も眺めては悦に浸っていたことをよく覚えています。あのころから日記を書くことで思い出を完結させるのが好きでした。
d0038776_2351092.jpg
 この公園もやはり、当時はなかった新しい遊具がたくさんあって、幼児向けの低いすべり台もあり、そこで娘は生まれて初めて、てっぺんから最後まで、自分一人ですべることができました。おっかなびっくり初めてすべり終えた瞬間の、嬉しそうな顔ときたら! ぱあっと顔じゅう輝いて、すぐさまもう一度滑ろうと、階段のほうへ駆けていきました。階段も幼児向けの安全設計だったので、登るのも手助けなしでできて、一人で登ってはすべり、すべっては登り、何度も何度も繰り返して、これまでぼんやりとしか味わえていなかったすべり台というものの真の面白さを噛み締め、最後のほうは、うつ伏せになってすべってみたりもしていました。
 これまで親に手伝ってもらっていたことを一人でできたときの喜びを、これから娘は、こうしてたくさんたくさん味わいながら、赤ちゃんじゃなくなっていくのでしょう。そのたびに今日みたいな、光が生まれて咲くような喜びの表情を見られるのだと思うと、考えただけで、泣きそうになります。娘があまりに嬉しそうだと、楽しそうだと、なんだか、泣きそうになります。どうしてだろう。
by papiko-gokko | 2012-09-19 23:22 | Diary | Comments(0)

 午前中、娘を連れて、高校時代の同級生とお茶をしました。先日の日記にも少し書いた、当時演劇部で苦楽を共にした役者仲間です。待ち合わせの場所にやってきた彼女は、抱っこひもで赤ちゃんを抱いて、両肩に荷物を下げて、控え目に染めた髪は肩より短く切りそろえ、すっかり綺麗なお母さんになっていました。だけどしゃべりだしたら高校時代と変わらなくて、2人ともが子供を抱っこしているなんて不思議だねえと笑いあいました。
 赤ちゃんは今6ヶ月で、ちょうど娘と1年違っていて、おててもあんよもぷくぷくふわふわ柔らかく、歯もはえていなくて、赤ちゃんっぽさにきゅんきゅんしながら、1年前の娘に思いを馳せました。6ヶ月の赤ちゃんと並ぶと、娘は随分スラリとしたおねえさんに見えて、もうふにゃふにゃの赤ちゃんではなくなったのだということがよくわかり、それが嬉しいような、ちょっと寂しいような気持ちになりました。娘は赤ちゃんに興味は示していたものの、まだ、一緒に遊ぼうとか可愛がろうとかいう発想には結びつかないらしく、小さな足を不思議そうに見つめながら、自分の足を持ち上げて「あんよ」と言ったりしていました。
 離乳食の話や、2人目についての話、それから当時の演劇部員についてお互いが知っている近況などなど、いくらでも話していたかったのだけれど、娘が飽きて動きたがって喫茶店に長居することはできず、喫茶店を出てからは、すぐそばのショッピングセンターのベンチでしばらく話をしました。お母さんになった彼女は、高校時代に部長さんをしていたころのように一人で抱え込んで苦しんでいるような様子もなく、支援センターなどへも行ったりしながら、日々じっくりと育児をこなしているみたいで、ほっとしました。そして、私もがんばろうと思いました。
 そのショッピングセンターは出身高校のすぐ近くにあって、当時はよく部活で使うものや打ち上げのお菓子の買い出しに来ていました。放課後の部活時間に制服でショッピングセンターに行くという、それだけのことがすごく特別に思えて、ほんの数分の距離を浮かれながら歩いたものでした。あれからもう10年以上も経つのに、ショッピングセンターの感じはまるで変わってなくて、匂いすら同じで、「全然変わってないねえ」と言いあいながら、彼女のピシッとアイロンのかかった制服姿が思い浮かび、その記憶の遠さにはっとしました。変わらないけど変わった、変わったけれど変わらない、そんなことを、演劇部時代の仲間と会うたび強く想い知って、どうしてだか、胸が苦しくなります。高校卒業から流れた10年という歳月は、私にとってもみんなにとっても、想像以上に、長くて濃くてめまぐるしくて、その10年を生きる前の思い出は、透明度が高すぎて、その透明感のなかに、ただ懐かしいと穏やかには振り返れない暴力的な何かが潜んでいて、「懐かしい」と口にするたび思い出に頬をぶたれる感触がします。
 お昼が近づいてきたのもあって、結局彼女とは、2時間足らずでお別れになってしまいました。思い出深い場所で会えたのも楽しかったけれど、やっぱり、家で会ったほうが、ゆっくり話せてよかったかなぁ。本当は支援センターで会う予定だったのですが、いざ行ってみたらそこが1歳までしかダメな場所で、急遽喫茶店になったのです。彼女はこちらの人ではなく、またお正月に帰ってくるそうなので、そのとき会えたら、今度はうちに来てもらおう。
 8月に旧友と会う予定は、きっと今度こそ、これでおしまいです。今回会った人はみんな、今地元には住んでいなくて、帰省してきていたのでした。もうみんなそれぞれの場所に帰ったんだな、帰って行くんだな、と思うと、人恋しさが湧きあがってきます。

 午後は娘が久しぶりにしっかりお昼寝してくれて、その間に掃除をしました。夕方には私の電池が切れて、娘がいないいばいばぁなど見ている間、寝てしまいました。人と会うと、楽しくて嬉しいけれど、やっぱりすごく疲れます。なんだか、思い出疲れしてしまいました。いつの時代を思い出しても、あの頃の私は間違いだらけだったということと、今もその時代からさほど成長していないということぐらいしか、わからないんだものな。
 明日からは、しっかり今を生きようと思います。
by papiko-gokko | 2012-08-21 00:06 | Diary | Comments(0)

 歯磨きとトイレットペーパーとオムツと明日の服と持っていくカバン以外のほぼすべてがダンボールに詰められ、部屋はもはや、私たちの住んだ部屋ではなくなりつつあります。明日、往復ではない飛行機チケットで、東京を離れるなんて、いまだに少し信じられません。少し眺めの帰省のような気がしてしまって、今回のはもうそんなのじゃないんだぞと、自分に言い聞かせています。明日この家のカギを返したら、もう東京には家がなくなるのです。
 冷蔵庫のなかを空っぽにしなければならないため、いつもの友達一家のうちに中身の一部を引き取ってもらうことになり、夕方に3人で家まで行きました。最後に娘と子供ちゃんを遊ばせることができて、友達夫婦と話すことができて、嬉しかったです。こんなとき、なにをしゃべればいいのかわからなくて、ろくに会話をできなかったけれど、別れ際に、旦那さんが夕焼けの中で写真を撮ってくれて、子供ちゃんのおどけに娘がけたけた笑って、笑顔で別れることができました。子供ちゃんの元気いっぱいのバイバイに、胸が詰まりました。次に会うのは、おそらく年が明けてから、友達の赤ちゃんが生まれてから、会いに行くつもりです。

 今は、とても不安な気持ちでいます。なにが不安なのかと問われると、具体的な答えがうまく見つからないのですが、これまで東京にいてほとんど頓着せずにいた、親戚づきあいや近所づきあいをうまくやれるのだろうかとか、夫と娘に島根の暮らしが合うのだろうかとか、とにかくいろいろ、とても不安です。 娘が幼稚園になるまでの約一年半を島根の実家で過ごし、そのあとどうなるかが今のところまったく見当がつかないというのも、どうしたって不安です。きっと不安がりたいだけなんだよと言われて、確かに私はそういうところのある人間なので、結局そういうことなのかもしれないけれど、そう思ってみたところで、やはり、不安は不安です。島根へは、実家の事情もあって住むことにしたのですが、それはちょうどいいタイミングで訪れたきっかけに過ぎず、私も夫も、田舎で娘を育てたいという思いが強まっていたところだったから行くのであって、だから、あっちへいったら、幸せに暮らせる生活の形を、3人で力を合わせて探すこと、これに尽きます。よし、そうだ、力を合わせて暮らそう。書いているうちに、元気がでてきました。家族3人で力を合わせたら、どうであれ、幸せに決まっています。


 そんなわけで、私の東京、最終回。最後は駅名ではなく、これまで住んだ家編。東京で、どこが一番好きだったかって、いつの日も、自分の家ほど大好きな場所はありませんでした。

■大学1年~2年(ワンルーム)
 ユニットバスに、申し訳程度の小さなシンクとガスコンロひとつ。今から思えば、かなり狭い部屋でしたが、それでも、一人でいると、がらんとして、小さなこたつテーブルの上で常に起動しているパソコンモニターの光が心のよりどころでした。水色のカーテンに水色の布団カバーを選んでしまったせいで、余計にさみしげな部屋になっていました。4階で、エレベーターがついていたものの、なんとなくひとりで乗るのが恐くて、いつも階段を駆け上がっていました。オートロックではなかったので、ドアの前を誰かが通る足音のするたび、びくびくしていました。
 夫と付き合うようになってから初めて部屋に呼んだのもこの家です。始めてきた日、飲み物がコーヒーでも紅茶でもなく、コンビニで買ったペットボトルのお茶だったことに衝撃を受けたそうで、家にまともなティーセットがないことに驚愕し、クリスマスプレゼントに、ランチョンマットとティーセットをくれました。このときから、私の生活力を育てるための、夫の長い長い戦いが始まったのでした。

■大学3年~4年(1K)
 セキュリティー面での不安から、今度はオートロック付きの学生マンションに住みました。ユニットバスではなくなり、きちんとした洗面所もあって、最初の家より随分暮らしやすくなりました。コンロは前の家と同じくひとつだったけれど、前よりはまな板をおけるスペースもできて、当時恋人だった夫がくるたび、パスタをゆでたりして簡単な料理をするようになりました。私はというと、相変わらず、バイトで賄いをもらえる日と夫の来る日を除いて、レトルトとお惣菜に頼る日がほとんどでした。友達いわく、冷蔵庫にはいつも冷凍タコ焼きがあったとのことで、確かにあのころ、たこ焼きもやたら食べていた気がします。あと、このころから肌が荒れだしたため、一生懸命アセロラドリンクを飲んでいました。私はベランダという場所があまり好きではないのだけれど、この家に関しては、街の雰囲気そのものが心地よくて好きだったので、たまに夫とベランダに出て、民家やお店の並ぶ路地を眺めながら語らったりもしていました。将来を漠然と憂いつつも、自由気ままな時代でした。

■社会人1年目~2年目の途中(1K)
 再びオートロックではない、普通のマンションに引っ越しました。ユニットバスではなかったし台所は広かったけれど、灰色のドアに真四角の絨毯部屋に真っ白な壁で、どことなく面白みには欠けていました。
 本当は社会人になると同時に同棲をしたかったのだけれど、社会人を1年間してしっかり自立して暮らせるようになってからでないとダメだと両親に反対され、でもどうしてもそばで生活をしたかったため、夫(まだ恋人)と同じマンションの別の号室に住むという、奇妙な形をとりました。最初のうちは、なんだか『のだめカンタービレ』みたいで楽しいかもなんて浮かれていましたが、結局どちらかの家にいることが多くなり、家賃がもったいなくて、2年目の途中で、私が家を引き払い、夫のほうに家具を無理やり運び込んで、引っ越し資金が貯まるまでの数ヶ月、ものすごく狭い中で数ヶ月ほど同棲生活をしました。社会人1年目という精神的にきついころだったこともあり、一番ケンカをしたのは、この家に住んでいた時期だった気がします。

■社会人2年目の途中~社会人5年目の夏まで(2LDK)
 夫と正式に同棲生活を開始した、記念すべき家です。最も好きだった家といっていいかもしれません。ふたりで家選びをして、最後に見せてもらったこの家に一目惚れし、多少予算オーバーだったものの、どうしても住みたくて、ふたりとも働いながら旅行も外食もショッピングもあまりしないのだから家ぐらいちょっと贅沢したっていいじゃないかと、決めてしまいました。これまで住んだところとは比べ物にならないほど広くて、タイルや床の色などひとつひとつに趣きがあって、リビングには窓がたくさんあってきらきら木漏れ日が降り注ぎ、まるで小説に出てくる部屋のようで、嬉しくて仕方ありませんでした。この家にあわせて、家具もいくつか買いました。
 同棲を1年したのちに入籍し、その約2年後にはお腹に娘もできて、結婚と妊娠という、人生の大きな節目のときを過ごした家でもあります。駅から徒歩20分ほど離れていて、その20分の道のりを、短歌を考えたり音楽を聞いたりしながら歩く、仕事帰りの時間が好きでした。古い商店街を歩いて、橋を渡って、坂を昇った途中にあるというのも、物語っぽくて好きでした。本当に、できることならいつまでも住んでいたいと思ったくらい、大好きな家でした。

■社会人5年目の夏~今日まで(3DK)
 妊娠時代も含め、娘を中心とした家族の思い出が詰まった家です。ごくありふれた3DKで、とりたてて情緒のある家ではないけれど、娘が生まれてから写真を撮りまくっていたので、この家ほど写真を撮られた家はほかにありません。臨月のおなかを抱えて、安産のため拭き掃除に励んだこと、生まれたての娘を抱いて病院から帰ってきた日の真っ青な空、母のいた産後3週間、こわごわ入れていたお風呂、まだ寝返りも打てない小さな小さな娘を夫とふたりでかわいいかわいいと見つめてばかりいたこと、震災直後たくさんの人が訪ねてきてくれたこと、動き始めた娘のために繰り返し起き場所を変えた家具たち、初めて畳みでハイハイして慌ててビデオを回したこと、ある日お風呂場までハイハイしてきて驚いたこと、お部屋のなかでミニプールをしたこと、拭いても拭いても娘が食べこぼす床、ベランダから外を眺めた雨の日、近所にあったいくつかの公園、娘とふたりで時間をもてあましながら、夫の帰りを待った長い長い時間。この家には、そんな思い出が詰まっています。きっと、後々、写真を見るたび、たまらなく懐かしくなることでしょう。

 以上、私の東京でした。書いたこと以外にも、東京タワーに何度か行ったこととか、クレヨンハウスとか、他にも色々、記憶が駅名と直結していなくて書きそびれてしまったものも多くて、思い出し始めると、きりがありません。きりがないほどたくさんの思い出をくれた東京を愛しています。さようなら東京。また来るよ。
by papiko-gokko | 2012-07-17 01:02 | Diary | Comments(0)

d0038776_13874.jpg
 先日バスで落としてしまった娘の白い帽子が無事に見つかり、夫が取りに行ってくれて、手元に帰ってきました。ニキティキで買ったゾウのバッヂもちゃんとついています。ああ、よかった。もうこのようなことがないように、帽子と洋服を留めておくクリップを買いました。これなら、帽子がはずれても安心です。
d0038776_131834.jpg
 引っ越し作業もいよいよ大詰めとなり、さすがの娘も落ち着かないようで、今日は抱っこを何度も求めてきたり、食欲が極端にあったりなかったり、夜も興奮気味でなかなか寝付かなかったりしました。娘のためにも、はやくあちらでの日常をスタートさせたいです。がんばろう。

 私の東京。私鉄・地下鉄・モノレール編。
 地下鉄の駅に関しては、2度ほど、東京メトロ・都営地下鉄一日乗車券で夫と東京めぐりをしていて、その思い出が大きいです(東京メトロ・都営地下鉄一日乗車券での旅記録 1回目 2回目)。

■神保町
 神保町の古本屋街がどんなものかを知りたくて、大学1年生のころ、高校の同級生で同じ大学に進学した子と行きました。その友達は演劇の本を求めて行ったのですが、その日はあいにく日曜日で、多くの古本屋さんが休業していて、ふたりでがっかりしたのを覚えています。
 その後、夫とも何度か行きましたが(東京メトロ一日乗車券の旅では2度とも行っている)、あまりに専門的すぎて、結局あまりお目当ての本には出会えないまま帰ることがほとんどでした。買えるような本はなくても、専門分野の学術書ばかりを集めた古本屋が軒を連ねている様子は、外から眺めるだけでわくわくしました。医学、科学、漢学、演劇などなど、世の中には多くの学問があり、その学問ひとつひとつに、膨大な量の学術書が書かれているのだということを目の当たりにして、私がこれまでに学んできたことなんて、学問のほんの入り口の浅瀬で足をばしゃばしゃさせているだけのことなんだなぁと、学問の世界の深さを思い知りました。学術書のお店だけでなく、古い雑誌や、レコード、セル画などを扱っているお店もあり、日常ではお目にかかれないようなものたちを、手にとって眺められることに興奮しました。

■銀座
 夫とふたりで、東京メトロ一日乗車券の旅(2回目)の際に行きました。テレビでよく映るあの有名な時計塔の建物(和光)を見た時は、やはり感動しました。その日、銀座では念願の資生堂パーラーに行って、ケーキを食べました。太宰治や吉行淳之助など昭和作家の小説に度々でてくる資生堂パーラーは憧れの場所の一つで、ケーキを食べている間ずっと夢見心地でした。あまりに夢見心地すぎて、男子トイレに入ってしまったほどでした。あのときは、人がこなくて本当によかったです。ケーキが美味しかったのかどうかもう忘れてしまいましたが、窓から見下ろす銀座の街は、なんともお洒落で東京チックで、うっとりし通しでした。誰もがおしゃれをしているなかで、私も夫もパーカーにスニーカーだったのが少し場違いで恥ずかしかったけれど、いい思い出です。

■青山一丁目
 もしかしたら間違っているかもしれませんが、たしかこの駅に、大学の友達2人と、紙を買いに行きました。当時、3人で絵本づくりをしていて、その絵本の表紙につかう紙を探していたのでした。青山の街はとても道が整備されていて、大通りを曲がるとまた大通りで、その両側にピカピカのビルが立ち並んでいました。道行く人たちも、なんだかかっこよくてスタイリッシュに見えました。

■後楽園
 後楽園といえば、東京ドーム。東京にいる間に、2度ほどB’zのライブを見に行きました。1度目はスタンド席、2度目はアリーナ席で、どちらも大興奮でした。なぜか出入口の風圧がすごくて、ライブのあとはいつも吐き出されるように外へでていたことをよく覚えています。後楽園という駅名も椎名林檎の歌にでてくるから、それだけでもう、降りるのが嬉しい駅なのでした。

■霞が関・永田町
 霞が関か永田町か、どちらの駅だったのは忘れましたが、大学受験で東京に来ていたとき、一次試験の結果待ち期間で、母といろいろ観光をしていて、せっかくだから国会議事堂も見てみようよということになり、下車しました。しかし、降りたものの国会議事堂の場所がよくわからず、母とるるぶの地図ページをひらいて途方にくれていたら、きちっとスーツを着たエリートサラリーマン風の男性が通りかかり、「どちらへ行かれますか?」と、親切に道を教えてくれてから颯爽と去っていき、私も母も、その都会的雰囲気に、すっかりぽうっとなりました。東京の人らしい、さらっとした親切さに、初めて触れた出来事でした。

■九段下
 九段下へは、武道館へ2度ほど行きました。1回目は大学の入学式、2回目はB'zのライブでした。入学式のあと、私はガイダンスを受けるために大学へ行き、母は九段下からそのまま空港へ向かったため、九段下は、上京して初めてのさよならをした場所でもあります。「じゃあねえ」と、わざとなんでもないふうに別れて、しばらくはそのままなんでもないふうを装っていられたけれど、ガイダンスの途中からは、不安で寂しくて、涙が出て仕方ありませんでした。九段下から武道館へと向かう坂道の桜が、とてもきれいな時期でした。

■水天宮前
 つい先日お礼参りにいった水天宮。妊娠中、残暑厳しい晴天の日に、安産祈願のご祈祷をしてもらい、そのあと、母と義母と夫と4人でおそばやさんに入って、おそばを食べて、ふらふらになりながらも人形焼きを買って帰りました。とにかく、あの夏は、暑かった!

■明治神宮前
 2度ほど、神宮球場に、ヤクルトの試合を観に行きました。1度は夫とふたりで、2度目は父も一緒に3人で行きました。夫と行ったときは、交流戦の時期で日ハムと試合していて、ダルビッシュ選手を観ることができました。すらりと手足が長くて、かっこよかったなぁ。父と行ったときは、横浜との試合で、残念ながら負けました。途中、小雨が降ったりして少し寒くて、帰り道も負けたからみんながっかり気味だったけれど、とても貴重で、いい思い出です。このほかにも、WBCで日本が優勝した年に、トロフィーを見に行ったこともありました。トロフィーの前は人だかりができていて、私も夫と興奮気味に写真を撮りました。 

■両国
 なんの折りだったのかは忘れましたが、夫と行って、両国国技館を見てから、ちゃんこを食べました。両国で、ちゃんこを食べる以外に何をしたのか、具体的なことをほとんど覚えていないのが残念です。夫は大相撲が好きなので、両国国技館や、駅に飾ってある大きな横綱の絵に興奮気味でした。覚えているふわふわした記憶から察するに、私はちゃんことお酒が合うことに感動して、日本酒を少し飲み過ぎたりしたのだろうと思います。

■築地
 父と夫が初めて会った日、夜にお寿司を食べました。上野駅で待ち合わせ、喫茶店ではじめましての挨拶をして、お城の石垣好きの父のリクエストで皇居のお堀周辺を回り、桜田門なども見て、そのあと夫のリクエストで、築地のお寿司屋さんに行ったのでした。夫からも父からも、あの日、わざわざ築地のお寿司屋さんで魚じゃない納豆巻きを頼んだことを、いまだに言われます。もともとあまり、お寿司は得意じゃないのだもの。父は、初めて会った夫に対して、意外なくらい優しくて、夫と2ショットの写真をたくさん撮ってくれたりしました。そして、かなり酔いのまわったころに、「よかったなぁ」と、しみじみ言いました。よかったなぁと、父が思ってくれるような相手で、本当に、よかったよなぁ。

■浅草
 母と妹と観光で行ったこともあるし、夫と行ったこともありました。2度とも、オーソドックスに雷門の前で写真を撮り、人形焼きを買って食べました。外国人向けの商品を売っている商店街が面白かったこと、私たちが子供のころに親しんだ水につけるとふくらむ消しゴムを売っているおじさんがいたこと、神社になぜかコスプレイヤーの人たちがいたことなど、コマ切れに思い出します。

■下北沢
 一度だけ、なにかのついでがあって、夫と行きました。劇団の張り紙があったり、手作り品を売る雑貨屋があったり、なんだか、独創性を磨きたくなるような、創作意欲をかきたてられるような、そんな若々しい活気に溢れている刺激的な街でした。それゆえに、せっかく東京にいてもどうせ私はこういう世界に飛び込む勇気なんてないんだ・・・と、なんとなくいじけた気分になってしまいました。

■お台場
 2度行ったことがあります。1度目は大学受験で東京へ来ていたとき、母と行きました。2度目は妹たちが遊びにきたときでした。母と行ったときは、自分がお台場にいるんだというそのことに興奮していて、どんな展示を見たのかは、あまり覚えていません。目覚ましテレビくんのシャーペンを買って、それを授業で割とよく使っていました。2度目のときは、そのときちょうど、「ありがとう北の国から」という特別な展示をやっていて、私も妹たちも北の国からを見たことがないのに、なぜかお金を払ってその特別な展示を見ました。妹たちとその話しになるたび、ドラマ知らないのに見てもわからんかったのにねえと、大笑いになります。東京にきた妹たちに、とにかく都会っぽさを味わわせて、こんな都会で暮らすお姉ちゃんってすごい!と思ってもらいたくて、必死だったころの出来事でした。

■有明
 勤めていたころ、東京国際展示場で開催された展示会の、自社ブースのスタッフとして参加したことがありました。家から相当遠かったから、とにかく嫌で嫌で仕方なかったのですが、行ってみると、街の作りも国際展示場の建物も近未来的ですさまじいし、たくさんの会社が自社製品をアピールしているブースを眺めるのも面白くて、ちょっと文化祭っぽくて、なかなかいい経験をさせてもらいました。

■浜松町―羽田空港
 学生のころ、飛行機で帰省するたび、利用していた2駅です。浜松町から羽田空港まで、モノレールの窓から眺める東京の風景が、とても好きでした。羽田へ向かうときには、あぁ私は東京の人としてどのくらいがんばれたんかなぁと、なんとなく哀愁を帯びて疲れた心で、再び東京へ戻ってきて浜松町へ向かうときには、よーしまたがんばらないとなーという情熱的な心で、眺めていました。大井競馬場前では、いつも馬が見えるかどうか、探していました。
by papiko-gokko | 2012-07-16 01:06 | Diary | Comments(0)

 荷造りの一日。ダンボールが足りなくなって、追加で10箱もらいました。これまでにも2度追加していて、もう軽く50箱越えている計算になります。今日はカーテンも洗いました。カーテンを外すと、部屋から特徴的な色が消えて、カーテンの布に吸収されないせいか声が部屋に響くようになり、いよいよ引っ越し直前の感じになってきました。
 部屋がダンボールだらけになっていくなか、娘は、おもちゃが日に日に減っていることにも気付かず、普段通りそのへんのもので遊び、絵本を読み、夕方には幼児番組を見て踊っています。仕事を辞めてから食事担当になってくれた夫は、もうお皿もお鍋もほとんどダンボールに詰めてしまったというのに、まだかたくなに普段通りの食事を作ってくれています。夫にとって日常は食事と直結していて、だからどんなに部屋がダンボールだらけになろうとも、食事さえ普段通りきちんとしていれば、夫の日常は損なわれないのだそうで、前日の夜まで普段通りの食事を作ると言っていました。私はというと、ひとり完全に非日常モードに突入していて、部屋をうろついてまだダンボールに詰めていないものを手にとりながら、あちらでの生活がうまくいくのか、不安がってばかりいます。

 私の東京、中央線編。

■中野
 初めて行ったのは、大学1年生のとき。大学進学で上京した高校の同級生数名で集まって、中野ブロードウェイを歩きました。古いアニメの雑誌やらフィギュアやらポスターやら、見るものすべてが珍しく、そこで品物を物色している熱心なファンらしき人たちの様子もまた珍しく、東京ってすごいところだ!と、渋谷や新宿などのわかりやすい大都会で感じるのとはまた違った感動を覚えました。その後も、高橋留美子の短編集が欲しくてひとりで行ってみたこともあるし、夫とブックオフではなかなか手に入らない漫画を買い求めに行ったり、ジョジョ好きの妹を連れて行ってみたり、結構何度も行っています。一角に、高橋留美子直筆のサインが飾ってあって、行くたびそれを眺めては感慨にふけっていました。

■高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪
 この4駅にそれほど長居したことはないものの、中央線沿いに遊びに行ったときに降りて、ちょっと商店街を歩いてみたりしたことが何度かありました。ひと駅違うだけで、並んでいる店の傾向も歩いている人たちの雰囲気もかなり違っていて、こういうのもまた東京生活の醍醐味なのだろうなぁと思いながら、それぞれに違った味わいのある街並みを楽しんでいました。阿佐ヶ谷の商店街に行ったとき、電気屋さんの店頭に置いてあったテレビの前に大勢の人たちがあつまって、盛り上がりながら大相撲の千秋楽を見ていたのが、まるで昭和にタイムスリップしたようで面白くて、印象に残っています。

■吉祥寺
 つい先日も訪れた吉祥寺。大学の友達と絵本屋さんめぐりで行って以来この町のファンになり、夫とも度々訪れました。今は閉店してしまった絵本とおもちゃの店『おばあちゃんの玉手箱』や、先日も行った木のおもちゃ専門店『二キティキ』、ナチュラル系食器の100円均一『ナチュラルキッチン』など、吉祥寺に行ったら必ず行くお気に入りのお店もできたし、可愛い端切れがたくさん売られている布のお店や、壁中にありとあらゆる色かたち大きさのボタンが並ぶボタン専門店(看板までボタン!)、店主の趣味嗜好が透けて見える雑貨屋さん、暗がりにランプの灯る喫茶店などなど、歩けば歩くほど、角を曲がれば曲がるほど、物語に出てくるような面白くて可愛いお店に出会えて、行くたび魅了されました。戦後の雰囲気がそのまま残っていそうなハモニカ横町も情緒があって好きだったし、表現者たちの集まる井の頭公園も好きでした。スワンボートというのに、乗ってみたかったなぁ。

■三鷹
 三鷹には2度行ったきりですが、忘れられない思い出があります。大学2年生の6月19日、母が東京にきて、母が予約してくれていた『ジブリの森美術館』へ行くため初めて三鷹に行き、私の希望で、美術館へ行く前に、太宰治のお墓を参りました。なぜ日付をはっきり覚えているのかというと、その日がちょうど桜桃忌で、たくさんの太宰ファンが訪れていて、私もその人たちにまぎれてお参りしたからです。おそらく私は5月のゴールデンウィークに帰省しているはずで、なぜそのたった一カ月後の6月に母がきたのかは思い出せないのですが、当時の私は東京での大学生活をまったく楽しめないでいる自分にすっかり失望してやる気をなくしていて、周りが見てわかるほど危険なレベルでネットの世界に依存していたので、母はよほど心配だったのかもしれません。そんな心配な娘が、浮かない顔で「太宰治のお墓いきたい」と言ったりして、ますます心配になったことでしょう。まさかそのわずか1カ月後に恋人ができて、日常が一変するとは、私も母も、思いもよらなかったころのことでした。
 太宰治のお墓を参ったあと、ジブリの森美術館を見て、それから、地下の喫茶店に入りました。よく晴れた日で日射しが強くて、私も母も、歩き疲れていたのです。その喫茶店は、文豪がタバコをふかしながら小説でも書いていそうな、昔ながらの重厚な雰囲気で、私も母もとても気に入って、長居しました。周りのテーブルでは、サラリーマン風の人や高校生がのんびり本を読んでいたりして、母が、「こんなとこでアルバイトしてみたら?」とか、「東京には、こんな素敵なとこがいくらでもあるんだろうけん、いろいろ探してみるだわね」とか、そんなことを言っていたような記憶が、うっすらとあります。せっかく東京にいるのに内に閉じこもっている娘が、歯がゆくて、少しでも世界を広げてほしいと思ったのでしょう。ずっと行きたかった『ジブリの森美術館』に行けて、太宰治のお墓参りもできて、とても楽しい一日だったはずなのだけれど、あの日、母がどんな気持ちで、あのときの私のことを見ていたのだろうかと思うと、泣きそうになります。そして、母に胸を張って語れることがなにもなくて、いじけきっていたあのころの心を思い出すと、今でも苦しくなります。
 2度目の三鷹来訪は、大学の友達と、やはり『ジブリの森美術館』へ行きました。そのころにはたぶんもう大学生活にも慣れてきていて、楽しく健やかな一日を過ごせた記憶があります。あのとき買った魔女の宅急便の便せんはまだ使い切っていません。ただ、2度も行ったのに、ジブリの森美術館がどういうところだったか、イマイチ思い出せないのです。早く3度目の来訪をしたいです。

 
by papiko-gokko | 2012-07-14 23:31 | Diary | Comments(0)