日記と短歌
by papiko
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つやつやと遺影の祖父は微笑んでほれ小遣いと言い出しそうだ
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 島根に帰省してきました。朝早く家を出たので、10時過ぎには実家に到着し、お昼前に母と出雲大社へ参拝しました。ここのところずっと参拝していなかったのですが、なんだか今年は運の悪いことがあれこれあったので、大社さんにお参りしなきゃだねと話していたのでした。その日は、山陰の冬にしては珍しいくらい雲一つない快晴で、大社は参拝客で賑わっていました。
 長女がおみくじを引きたいというので引かせてみると、「善良なしつけはまず家庭から始まるべし」と書かれていて、私も夫も、ひゃあーとなりました。わがままな子どもたちをどうしたものかと日々頭を悩ませているところに、ガツンときました。出雲の神様には、すべてお見通しのようです。全体的にあまり今年は運が良くないですという内容だったので、境内にくくりつけて帰りました。こういうものはやはり、1年の初めに引かなければ駄目だなぁ。もう今年は終わりそうですが、家庭教育の見直しをしていこう。
 出雲大社に参拝したあとは、正門前に並ぶ観光客向けのお店を見て周り、おそば屋さんでお昼を食べて、長女は勾玉のキーホルダーを、次女はハートまんじゅうなるものも買ってもらいました。どのお店にも縁結び関係のものがたくさん売られていて、今風の若い女の子たちの姿が多く見られました。地元が観光で賑わっていると、嬉しくなります。
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 お店の並ぶ道を少しいくと大社駅に着き、そにには最古級という古い電車が展示されていて、車内に乗ることもできるので、ちょっとだけ乗って遊びました。動かない電車の窓から光が降り注ぎ、物語の中に迷い込んだような不思議な空間でした。運転席にも自由に行くことができ、子どもたちが夢中で触っていました。
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 出雲大社とその周辺をほどほどに満喫したあとは、大社の比較的ちかくの、長女がいつも行きたがる大きな公園で子どもを思い切り遊ばせてから家に帰り、子どもたちを母に託して、私と夫だけ買い物に出かけました。ふたりだけで買い物をするのは久しぶりだったけれど、子どものことが気になって、なかなか身も心ものんびりとはいかず、結局、ショッピングモールで夫の靴下と、ブックオフで絵本を1冊だけ買って帰りました。
 夜には父も帰ってきて、すき焼きとお酒で盛り上がりました。夫はお酒が入ると父と仲良くしゃべれる人になるので、ほっとします。父は私や妹の夫と親しくなりたい気持ちが強い人なので、父と夫が仲良くしてくれていると、ほっとします。

 翌日は、午後から雨の予報だったので、早めに近所の公園へ遊びに行き、午後は2時過ぎまで家でのんびり過ごしてから帰りました。公園では、父と夫が、なんと人生初のキャッチボールをしました。父はスポーツをするのも見るのも大好きな人ですが、夫は基本的にスポーツをしない人で、観戦もさほど熱心なほうでないので、そのふたりがキャッチボールをする日がくるとは思いませんでした。どうやら昨日の夜お酒を飲んでいて野球の話になり、キャッチボールをしようじゃないかとなったようです。私もちょっとだけ父とやりましたが、ボールが飛んでくるのが恐くて、必死で手を出していたら、結果的にすべてキャッチすることができました。父と遊ぶなんて、とても久々のことで、気恥ずしい。3姉妹で、息子とキャッチボールという夢が叶わなかった父なので、夫と投げ合えて、嬉しかっただろうと思います。

 帰り際、仏壇の祖父に挨拶しようと思って、長女と一緒に仏壇へ行ったら、そこに私と次女の帽子が置いてあり、「おじいちゃんが忘れ物教えてくれたんだねー」と笑いながら手を合わせました。そして手を合わせながら、祖父の生きているとき、祖父の見ているところで、こんなふうにもっとたくさん、長女と手を合わせておけばよかったなぁと思いました。そうすれば祖父は、自分が仏さんになっても、孫やひ孫が手を合わせてくれるだろうと、その姿を想像しながら逝くことができただろうに、と。
 祖父は毎朝、どんな日も、仏壇にお水を供えてお線香をあげることを、怠りませんでした。晩年、祖父の手元があぶなっかしくなってきて、ロウソクとお線香を本物でなくLED電球で光るだけのものに変えたときも、やっぱり本物のロウソクを使って、お線香をあげずにはいられなかったようで、本物を使っていたのは、線香の香りでバレバレでした。長女が1歳半か2歳くらいのころ、祖父が長女に、「のんのんさん、のんのんさん」と、仏さんに向かって手を合わせることを教えていたことを、長女と仏壇に座るたび思い出します。そのとき私は、そんなこと2歳児に教えても分からんだろうにまったくと、苦笑いで見ていました。だけど、あのときもっと、一緒に手を合わせ、まじめに教わればよかったと、今すごく思います。長女が拝む姿を、もっともっと、祖父に見せておけばよかったというのは、祖父に関するいくつもの後悔のなかでも、大きいことの一つです。
 生まれたころから実家には仏壇があったけれど、祖父が亡くなるまでずっと、仏壇に入っていたは私の生まれるずっと前に亡くなったご先祖様だけだったので、仏壇に対して何を思えばいいのかいまいち分からず、それよりは同じ床の間にある神棚のほうがまだなんとなく概念が分かりやすいくらいで、仏壇も神棚も、拝むのはお盆とお正月くらいのものでした。大人になってからは、帰省するたび拝むようにしていたけれど、それも習慣的なものでしかなく、なぜお墓とは別に仏壇というものがあるのか、深く考えたこともありませんでした。
 けれども、今は分かります。家に帰るとまず、仏壇の前に座りたいと思うくらい、今はとても、その意味が分かります。仏壇の前に座ると、会いたい気持ちや話しかけたい気持ちが、ふうっとほどかれて、そしてごく自然に、「おじいちゃん、ただいまー。帰ってきたよー。」と、仏壇の写真に向かって、語りかけいる自分がいました。お線香をあげて、その香りの漂うなかで、ぽつりぽつり話しかけていると、本当に、祖父のいるところまで、自分のぼやけた声が届く気がしました。そして、それまでとは比べものにならないくらい、いつまでもそこに座っていたくて、みんなが立ち上がってからも、なかなか動けませんでした。
 実家に帰ると、祖父の不在が身に染みて、みんなでリビングにいるとき、別の部屋で少しでも何か物音がすると、これまでの癖で、おじいちゃんかな、と思ってしまって、そう思った次の瞬間に、ああそうだったおじいちゃんはもういないんだったと、気づかなければいけないのが、たまらなく寂しくて。だから、仏壇の存在を、とてもありがたく感じます。この家からおじいちゃんはいなくなってしまったけれど、そのかわり家には仏壇があって、仏壇の前に座れば話しかけられるんだと思うと、救われます。仏壇には、お茶の時間に入れたコーヒー(私たち孫があげたマグカップ入り)と、カップ酒・・・と思いきや、カップ酒の形をしたユニークなロウソク(母が見つけて買ったらしい)と、それからおまんじゅうなどがお供えしてありました。そういうものの一つひとつが、祖父の生前を思い起こさせます。10時と3時きっかりに必ずコーヒーを飲んだ祖父。子どもの頃から、数え切れないくらい、一緒にお茶をしました。祖父も祖母もみんなでお茶を飲むのが好きな人だったので、子どもの頃も、大人になってからも帰省するたび、あーもーめんどうくさいなあと思いながら下に降りて、一緒に3時のお茶を飲みました。面倒なことも多い祖父だったけれど、死んでしまうということは、もう、めんどうくさいなあと思うことができないことで、めんどうくさくなくなることは、こんなに寂しいことなのかと、仏壇に供えられたコーヒーカップを眺めて思います。

 祖父のおかげで帽子を忘れることもなく、無事に家に帰ることができ、多少の疲れを引きずりつつ、みんな日常を過ごしています。私は、出雲大社のおみくじの言葉を、ことあるごとに思い出しながら、家庭からか・・・家庭からなんだな・・・と、日頃の自分の育児について反省しています。とくに次女が最近ワガママすぎるので、家庭でしっかりしつけていかなければと思います。なんだか今回は、神様と仏様の存在を、強く感じた帰省になりました。神様、仏様、がんばりますので、どうか見守っていてください。
by papiko-gokko | 2016-12-06 23:48
一週間の帰省と遺品整理
 長女の夏休みが始まって、一週間、出雲の実家に帰っていました。行きは、岡山に来ていた両親の車に私と子どもたちで乗せてもらい、帰りは夫に迎えに来てもらうという初めての試みで、ひさびさにたっぷり実家で過ごしました。今回長く帰った第一の目的は、子どもたちの夏休みの思い出を作ること、第二の目的は、母に子どもたちの面倒を見てもらって子どもと距離を少し置き、私が長い夏休みを乗り切るための英気を養うこと、それからもう一つは、祖父の遺品整理を手伝うことです。

 第一の目的、夏休みの思い出作りは、大成功でした。事前に母が庭用のプールを買ってくれていたので、毎日それに入って大喜びで遊んだし、何度かショッピングモールに行って有料の遊び場で遊ばせてもらったし、新しいおもちゃや本も買ってもらったし、それに長女は母(ばあば)にべったりで、毎晩、私でなく母のベッドで眠り、朝には犬の散歩について行っていました。ウナギや桃など美味しいものもたくさん食べさせてもらったし、夫が来た日にはみんなで海に行き、長女だけ水着を着て初めて海に肩までつかりました。夜には、私や妹が小さい頃に着ていた浴衣を子どもたちに着せて、手持ち花火を楽しみました。思うぞんぶん遊んで、いつもなら聞いてもらえないような願いをたくさん叶えてもらって、長女も次女も、最初から最後まで、ずっと楽しそうでした。
 両親、とくに母がはりきってくれたおかげで、第二の目的のほうも、かなり達成できたかなと思います。親に気を遣って疲れた部分もどうしてもあったけれど、それでもやはり、普段の生活では離れることのできない子どもと距離を置いて過ごせたのは、ありがたいことでした。子どもに対して腹を立てずに過ごすことができて、冷静な目で、自分の子どもの性格はこんなふうなのだな・・・と、いいところも悪いところも、おもしろいところも問題点も、発見することができました。

 三つ目の目的、遺品整理は、行く前から絶対やろうとはりきっていたので、精一杯がんばりました。両親は忙しくてなかなか大変そうだし、それに私はお葬式でちゃんと泣けなかったから、遺品整理を手伝うことで、改めて、祖父と対話がしたいという強い思いもあり、できるところは私が自分の手で、やりたかったのです。子どもたちがプールで遊んいるあいだや、母が見てくれているあいだにひたすら整理し、祖父が一日の大半を過ごしていた居間の部屋を、2日間かけてほとんど片付けることができました。もう捨ててもいいだろうというものはどんどんゴミ袋に入れ、思い入れのありそうなものなどこれは遺品かなーと思えるものは、遺品候補のものを集めたカゴに入れていきました。携帯電話やら病院やら水道光熱費の請求書や領収書をたくさん捨てました。もう二度と電話代もかからない、水道も電気もつかわない、病院へも行かない、それが死ぬということなんだな・・寂しいな・・と思いながら、捨てました。
 祖父の引き出し関係の中にとにかくたくさんあったのは、祖父が定年後から病気になるまで生業にしていた鮎釣りと猟の道具で、それは、父が定年後に跡を継いでやるかもしれないと言っていたので捨てずにとっておくことになり、あちこちにしまってあったものを集めたら段ボール2個分にもなりました。私が子どもの頃、まだまだ体格ががっちりとして元気の漲っていた祖父が、プロ野球中継を眺めお酒を飲みつつ鮎を捕るための網を編んでいた姿はとてもよく覚えているので、ひさしぶりにそれらの道具を見て、時間が引き戻されるような気持ちがしました。子どものころからずっと祖父の部屋にあった棚からは、開いて物を出すたびに、当時と変わらない匂いが立ちのぼってきました。いつも祖父の傍らに置いてあった灰皿付き小物入れの引き出しを整理していたときには、一番奥から、私が7歳のころに描いた、やけに写実的な祖父の絵と、おそらく同じ日に描いたのであろう当時4歳だった上の妹の、祖母の絵が出てきて、気まぐれで祖父の絵を描いた7歳のその日から、その絵がずっとその引き出しの中にあったのかと思うと、時空が歪むような感覚を覚えました。

 片付けていて一番興味深かったのは祖父と祖母それぞれの日記帳でした。祖母のものはノートで数冊、祖父のものは1年ごとの手帳で、1979年から2012年までどっさりありました。祖母が倒れてもう二度と意識が戻らないと分かったとき、祖父が祖母の日記を読んで、日記相手にケンカをしていたことを思い出しながら、ぱらぱら、二人の日記をめくりました。祖母の日記は、朝コーヒーを飲んだこと、お腹の調子が悪かったこと、クリーニングを出しにいったこと、孫の吹奏楽を聴きにいったこと、天気のことなどが、時系列で細かく書かれていて、たまに感想や決意も書いてあったりして、その日の祖母のことが、口調や表情まで目に浮かんできました。一方祖父のほうは、日付ごとに区切られている手帳の少ないスペースに、その日の主な出来事だけが、ほぼ毎日書き込まれていました。それでもわずかな文面と走り書きの文字から、その日の祖父がどんなふうだったのか思い浮かんでくるのだから、日記というのは不思議です。
 祖父の83年4月3日の日付には「○○(私の父)の長女誕生」と、私のことが書かれ、私が進学で家を出てからは帰省するたびそのことが記録され、2012年の7月には、私たち一家が一時的に出雲に引っ越し住み始めたことも、ちゃんと書かれていました。しかし、2012年の後半あたりから、だんだんと、記録が毎日でなくなって、文字数も減ってきて、2013年の日記はついに見当たらず、そのあたりから、祖父の生きる気力が減退していったのだろうか、私たちが一緒に住んでいたころの祖父は、何を思っていたのだろうかと、しばし考え込みました。
 祖母が倒れ意識をなくして入院してからの日記には、しばらく毎日のように「病院へ行く。異状なし。」と書き込まれていて、その「異状なし」という言葉が悲しくて、あやうく泣きそうになりました。医学的診断でもう二度と意識が戻ることはないとはっきり分かっていても、病院へ行って昨日と変わっているところがないかどうか目で見て確認し、日記に「異状なし」と日々記していた祖父の心情を思うと、異状なしという言葉の、事務的な響きが、余計に辛くて、やりきれない気持ちになりました。
 祖母の日記にも、祖父の日記にも、私たちや両親の名前が、たくさん出てきて、自分の名前が出てくるたび、語りかけられているような気持ちになり、温かさと寂しさで、胸が締め付けられました。私を大事に思い共に生きてくれていた人がこの世からいなくなったんだということを、名前が出てくるたび、思い知らされ、大声で泣きたくなりました。それでいて、あまりの祖父らしさ、祖母らしさが垣間見える文章には、思わずくすっと笑ったりもして、日記を読んでいるあいだ、私の心は、祖父と祖母の人生そのものに、抱かれているように感じられました。日記ってなんのために、だれのために、どうして書くのだろうというのは、こうして日々ブログを書きながら考え続けているテーマだけれど、祖父と祖母の日記に、その大きなヒントが、隠されている気がします。その答えに、たどり着きそうで、だけどまだ、考えている途中です。ただ一つはっきり分かったことは、日記を書くことに、意味はある、ということ。これ以上の読み物はない、ということです。

 気の済むまで片付けて、祖父母の持ち物と対話して、日記の文面に触れて、心に浮かんできたのは、たくさんの、どうしようもない後悔でした。一緒に住んでいたときもっともっと親切にすればよかった、もっと長女や次女と触れ合わせたらよかった、耳のちゃんと聞こえていたうちに、もっといろんなことをしゃべっておけばよかった、もっと贈り物をすればよかったと、お葬式のときには、なるべく考えないようにしていた後悔が、頭の痛くなるほどわき上がってきました。そして、人が死ぬということの重さを知りました。からっぽになるはずないと思っていた場所がからっぽになったような、呆然とした思いを、まだ引きずっています。
 
 私よりずっとまだ引きずっているであろう父は、表面的には元気そうで、定年間近でありながらまだ海外出張もあったりして忙しく過ごしながらも、庭で自家製の梅干しをおいしく作ることに命をかけている様子でした。しかし、出雲で過ごす最後の日、みんなで花火をしたあと、祖父の祭壇が飾られている床の間でわいわい賑やかに写真を撮ったりしながら、「おじいちゃん、大騒ぎでびっくりしとるね」と言い合っていると、父が祭壇の祖父の写真に向かって「おやじ、嬉しいよなあ、おおはいごん(大騒ぎ)が、大好きだったもんな」と語りかけ、その、聞いたことないほど優しくて心細げな声を聞いたとき、ああ、父はまだ、ぜんぜん、祖父の死のそばにいて、死を過去のものにできてなんかいないんだ、ということが、痛いほど分かりました。いつも、父は祖父に対して、ちょっとつっけんどんなくらいのしゃべり方だったのに、祭壇に話しかけるその声は、いまにも泣き出しそうにも聞こえました。
 土日は高校野球の県大会を熱心に見て、涙ぐみながら校歌を聴いていた父。地元愛、母校愛のものすごく強い父や、一生を通して出雲で過ごした祖父の人生のことを思うと、地元を愛し、信頼し、ずっと地元で生きていけるのならば、それってすごく幸せなことだよなぁと思えてきます。そして、私にはどうしてそれができないのだろうかと、なんだか心許なくなります。20代のころは、いろいろなところへ住んでいろいろな場所を知って視野を広げてこそと人生は楽しいと思っていたようなところがあるけれど、人生の充実と、住んだ場所は、関係ないなぁと、今は思います。

 どうにも、とりとめのない日記になりました。まとまらないので、終わりにします。まだまだ長い夏休み、明日は何をして過ごそう。
by papiko-gokko | 2016-07-24 22:40 | Diary
ふるさとの海の青さが出て行った私の意地をまあるく浚う
 夫のお盆休み、12日から3泊4日で島根の実家に帰省しました。1歳半から3歳までの1年半を実家で過ごした長女は、その当時の記憶こそ残っていないものの、たくさんの写真や映像から、すてきな思い出がいっぱいの場所というイメージをもっていて、夏休みが始まったときから今回の帰省を楽しみにしていました。
 今回の帰省には、一つ特別なことがありました。数年前から海外赴任していた父の赴任期間が終わり、先日ついに両親そろって本帰国したのです。そんなわけなので、帰省した初日の夜ご飯のとき両親に、おかえりとおつかれさまの気持ちを込めて、花束を贈りました。長女が「おかえり」と言いながら、彼女の両手でやっと抱えられる大きさの花束を渡すと、父も母も目を丸くして驚き、それから涙ぐんで喜んでくれました。海外で働くこと、暮らすことの大変さなんて、海外旅行すらしたことのない私には想像もつきませんが、文化の違う土地で、食生活を工夫したり、一生懸命に言語を学んだり習い事をしたりして、さまざまな面で努力をしていたのは知っていたので、両親の涙を見たら、おつかれさまという気持ちでいっぱいになり、私も少し涙が出ました。無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しいです。これからはもう父も母も海外ではなくずっと日本にいるのだなと思うと、長いあいだ忘れていた安心感に包まれます。
 私たちの帰省した翌日には下の妹も帰ってきて、ますます賑やかになりました。14日には午前中プールに行って泳ぎ(実際に泳いだのは夫と長女と下の妹だけで、私と次女と両親は見学)、午後は買い物嫌いの父以外のみんなでショッピングセンターへ行きました。歩いていたら、中学時代の友人に声をかけられて、「わああひさしぶり!」と思わず彼女の手を握り、そんな自分に驚きました。なんだか無性に嬉しかったのです。きっといま、長女の幼稚園という新しい世界が私にできたので、懐かしい友人の顔をみて、本能的にほっとしたのだと思います。島根に住んでいた1年半のあいだはそれほど会いたいと思わなかったのに、今はなんだか、中高時代の友人が恋しいです。方言丸出しでしゃべりたい気分です。
 その日の夜には、遠くでやっているお祭りの花火を眺めながら、手持ち花火をしたりもしました。実家の夜は、暗闇が本気の漆黒すぎて、星が降るほど見えすぎて、山と川が生み出す静けさはあまりにも圧倒的すぎて、いまにも妖怪に出くわしそうな気配のなか、いきなり草陰でウシガエルがブベエーブベエーと鳴いたりするので、長女はすっかり怯え、花火の最中もこわいこわいと涙目で、次女も長女につられて「こあい、こあい」と泣きかけていました。建物がないから風が強くて、ロウソクに火をともすことができず、ライターで花火に直接火をつけて、その花火の火をべつの花火につけるという方式でやったため、火を絶やさないために大忙しの花火になりました。
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 15日の午前中には、海を見にいきました。当初の予定では、ドライブがてら車から眺めるだけのつもりでしたが、海水浴場は思っていたほど混雑しておらず、車を止めることができたので、少しだけ砂浜で遊びました。日本海は青々と澄み切っていて、みんな気持ちよさそうでした。長女は下の妹と一緒にばしゃばしゃ走り回ったり、砂の山を作ったりして、海を満喫していました。次女は少し怖がりながらも興味津々で、夫にしがみつきながら、波の感覚を足で味わっていました。
 家でもプールでも海でも、とにかく両親や下の妹が子供たちの相手をしてくれて、とくに長女はべったり甘えて、夜もじいじばあばの布団で寝たので、私はかなり楽をさせてもらいました。やさしい大人たちに囲まれて、長女はいつもより少しわがままになっていたけれど、私と夫以外に長女のわがままを許してくれる大人がいることで、私と夫は安心して長女を叱ることができ、こういうのっていいなぁと思いました。長女もきっと、やさしい大人たちにたっぷり許されながら、羽を伸ばすことができたことでしょう。ふだんなら、ダメに決まってるでしょと買ってもらえないジュースを買ってもらったり、100円を入れて動く乗り物に乗せてもらったり、浮き輪やねんどを買ってもらったり、長女にとっては夢のようなことがたくさん叶った日々でした。
 4日間、長女はずっと興奮状態で、とにかく楽しめるだけ楽しみまくるぞという気迫に満ちていました。次女も、最初だけ人見知りして泣いていたけれど、実家のおもちゃが気に入って、毎日夢中で遊んでいました。下の妹が連れてきた犬にも興味津々で、何度も見にいっていました。ふたりとも全力で楽しんで、帰りの車では1時間ぐらい爆睡していました。それでも長女には足りなかったようで、家に帰ってから、「もっと遊びたかった。赤ちゃんのころはどうしてずっとあの家にいられたのに、いまは帰らなくちゃいけないの?」と泣きべそかいていました。次女も激動の4日間を終えて処理しきれない感情があったらしく、ひさしぶりに激しい夜泣きをしました。今日もまだ、一家全員疲れが残っていて、長女は一度だけ吐き、次女はずっと不機嫌で、夫と私も体のこわばりが取れ切れていません。それくらい、全力で楽しんだ4日間でした。どこへ行ってもお盆でもさほど混雑していないし、そこらじゅうに広がっている自然の風景が言葉を失うほど美しいし、島根って観光にもってこいの場所だなと、今回つくづく思いました。私の生まれ育った場所で、子供たちがこれから楽しい思い出をたくさん作って、島根を愛してくれたらいいなぁと、自分はきちんと愛しきていないくせに、願っています。
by papiko-gokko | 2015-08-16 23:23 | Diary
久しぶりの帰省
 ゴールデンウィーク、2泊3日で出雲の実家に帰省しました。引っ越し以来、1年以上ぶりの出雲です。長女は出雲に住んでいた1年半のことをすでにほとんど覚えていないようですが、当時の写真を見るたび出雲に行きたがっていたので、それはそれは楽しみにしていて、毎朝「あと何日で出雲に行く日?」と尋ねていました。
 行きはそれなりに渋滞して5時間かかりましたが、興奮気味の長女は一睡もせず、出雲の見慣れた景色を懐かしがる夫を真似して「なつかしー」なんて言っていました。私も出雲に帰れば懐かしさを感じるかと思っていましたが、なぜかこれまでで一番と言っていいぐらい、少しも懐かしくありませんでした。ただ、ここに一家で住んでいた時期があったなんて嘘みたいだなーという、不思議さだけがありました。初めて上京して浮かれていた大学時代のようには単純に、故郷なつかしいわーあったかいわーだいじだわーとは、思えなくなっている自分がいます。
 実家にはすでに母と下の妹が帰ってきていて(父は仕事のため今回不在)、それから祖父も待ちかねていました。出雲に住んでいた時期、長女は毎晩寝る前に祖父に挨拶をしていたので、成長した長女にすごく会いたがっていたのでした。長女は祖父のことをどの程度覚えているのか分かりませんが、「おじいちゃん、おぼえてるよ!」と言って、祖父を喜ばせていました。実際に、祖父の部屋の座卓にお菓子の入ったお皿がいつも置いてあって、たまにそのお菓子をもらっていたということは、記憶に残っていたようで、子供の記憶っておもしろいなぁと思います。
 到着するとまず、長女は前々から楽しみにしていた実家にある私や妹たちのおもちゃ(シルバニアや、リカちゃんハウスや、おままごとなど、とにかくいろいろある)でひとしきり遊びました。次女も初めて見るおもちゃの数々に目を輝かせながら遊んでいました。次女はわりと場所見知りするのだけれど、なぜか実家ではまったく場所見知りせず、最初から慣れ親しんでいる場所のように、歩き回っていました。生まれてから生後2ヶ月ごろまで住んでいた場所だということが、本能的に分かるのでしょうか。実家の階段や洗面台を使っていると、まだ小さかった長女を世話していたときのことが蘇ってきて、やっぱりなんだか、ここで子供を育てていた時期があるなんて嘘みたいだなーと思いました。どうしてこんなに住んでいた実感がないのだろうか。あの1年半は一体、私にとって何だったのだろう。長女が生まれてからの、東京での1年半と、岡山での1年との間で、ふわふわ漂っています。
 夕方には長女だけ、母と下の妹と一緒に近所の土手まで、犬の散歩に出かけました。この土手も写真によく映っているので長女は行きたかったらしく、母の話によると長女は「ずっとここに、きたかったんだー!」と、嬉しそうに満面の笑みで駆け回っていたそうです。住んでいたころは私もよく、長女と土手を散歩したものでした。いつでも風が強くて、見晴らしが良すぎて、引き返す以外の目的地がどこにもなくて寂しくて、途方に暮れてしまうような散歩道でした。だけどあのころも長女は、嬉しそうに楽しそうに歩いていたっけ。
 夜には上の妹一家もやってきて、姪っ子(生後7ヶ月)とも数ヶ月ぶりの再会を果たしました。いつも上の妹とスカイプしていて姪っ子が映るたび、思わず画面に触れながら「さわりたいなー、あいたいなー」と言っていた長女は、たまらなく嬉しそうに近づいて、だけど私の言いつけをぎりぎり守ってそっとそっと、ぷくぷくの姪っ子に触れていました。人見知りの始まった姪っ子は、最初泣いてばかりいたけれど、翌日にはもうみんなに慣れて、私が抱っこしても泣かなくなり、時折笑顔も見せてくれるようになりました。姪っ子と次女は半年以上離れているけれど、大きさはもうほとんど一緒で、抱っこすると姪っ子のほうがずっしり重たいくらいでした。しかし大きくても抱き心地はまだまだふにゃふにゃ赤ちゃんで、懐かしさがこみ上げてきました。
 いつも所作の荒い次女が姪っ子に何かしたらどうしようかとハラハラしていましたが、次女は思いのほか姪っ子に対して友好的で、普段のような攻撃性はまったくなく、姪っ子を興味深そうに見つめ、時にはにこにこ指さし、お互い慣れてくると、そばで平和に遊んだりもしていました。会って間もないときに、次女が姪っ子のほうに手を伸ばしたとき、思わず私と母が「だめだめっ」と大きな声を出したので、次女は自分が怒られたと感じて大泣きしてしまい、しばらく悲しくて仕方なさそうにぽろぽろ涙を流して泣いていて、悪いことをしたなぁと反省しました。次女はまだしゃべらないけれど、こちらが思っているよりもずっといろいろなことを分かっているのだと、その泣き方を見て思いました。
 翌日はみんなで一緒に、長女が写真を見るたび行きたがっていた大きな公園に行きました。これは今回の帰省の目的と言っていいぐらい、長女がもっとも楽しみにしていたことなので、 長女は大興奮で遊具という遊具を味わい尽くしていました。住んでいたころは、まだできなかった遊具たちも、今の長女はひょいひょいこなし、もうそばに付いていなくても平気で高いところまで上り、長いすべり台も一人ですべり、成長を感じました。引っ越す直前にきたとき、まだ生後2ヶ月で抱っこだった次女も、今回は靴を履いて歩き回り、いくつかの遊具で遊びました。まだ遊べない姪っ子は、長女の吹くシャボン玉をまぶしげに見たりしていました。数年後にはこの公園を、いとこで駆け回ることでしょう。
 その日の夜はすき焼きをして、祖父も呼びみんなでわいわい食べました。夫は上の妹の旦那さん(義弟、というのか)との友好を深めるべく、果敢に話しかけていました。義弟は人見知りらしく緊張していたけれど、やがて慣れて、和やかに話していました。食後にはプレステ2を引っ張り出してきて、ドラゴンボールや桃太郎電鉄をやっていました。長女は生まれて初めて目にするテレビゲームの画面を食い入るように見つめ、「これは、どっちかが、やっつけられるんだね」と、必死で理解しようとしていました。母と長女はやがて隣の部屋へいって眠り(長女は2日とも私たちとではなく、母と下の妹と同じ部屋で寝ました)、私も姪っ子と下の妹が寝ている下の部屋に降り、うとうとしながら、上の階で時々どっとわき起こる笑い声を、幸せな気持ちで聞いていました。そのうちあの笑い声の中に、下の妹の旦那さんの声も加わるのかな。
 最終日の午前中は、長女がちょっとぐずっていた(軽くお腹を壊したのと、寝不足と、帰りたくないのとで)ので、私は家で長女の面倒を見つつ片付けをし、ほかの人たちは買い物、そしてなぜか夫と義弟と下の妹が、義弟の持ってきていたバドミントンを少しだけして爽やかな汗を流してから、レンタカーで来ていた上の妹一家は、返す時間があるため私たちより一足早く、帰路につきました。見送りのとき、玄関で集合写真も撮りました。集合写真を撮るときの、微妙な居心地悪さはなんだろう。どこに立っていても立ち位置を間違えている気がしてしまいます。
 私たち一家も、お昼ご飯を食べて少ししてから、車に乗り込みました。土手でも遊んだし、公園にも行けたし、おもちゃでも遊んだし、長女は大満足だったことでしょう。次女も明らかに、来た時よりちょっと成長しました。年下の子と触れ合ったり、たくさんの人に名前を呼ばれたことで、いろいろと彼女なりに自覚が芽生えたのでしょう。姪っ子に触れようとして泣いたあのときを境に、泣き方が赤ちゃんじゃなく幼児っぽくなったし、こちらの言っていることに対する反応も、ますますはっきりした感じがします。
 明日からは幼稚園ですが、長女はどうもちょっと疲れが出たらしく、熱っぽかったり咳がでたりと体調が思わしくないので、心配です。本人は行きたがっているので、明日回復することを祈るばかりです。
by papiko-gokko | 2015-05-06 23:21 | Diary
寂しいと言わず「遊びに行くから」とさよならの代わりに「応援してるよ」と言う
 アジサイが色づき始めて、気付けば5月ももう終わり。突然ですが、この夏、東京を離れることになりました。娘が幼稚園に入るまでの2年間、島根の実家で暮らします。
 経緯を話すと長くなるのですが、書かずにいるのもなんだかもやもやするので、書くことにします。現在、両親は父の赴任先で暮らしていて、下の妹も県外で働いているため、実家には祖父と上の妹とそれから犬が住んでいます。ところが、もうじきその妹が家を出ていくことになり、これまで妹がしてくれていた犬の世話などの問題をはじめ、細かい問題がいろいろと出てきて、ゴールデンウィークあたりからずっと、どうしたものかと話し合いを続けていたものの、なかなか解決策が出ないまま、妹の出ていく日だけが刻一刻と近づいてきていました。 
 そんな先の見えない状態が、急展開を迎えたのは、つい一週間前のことです。夫が、「じゃあ、俺らが、島根へ行こうか」と、そんなことを、冗談ともまじめともとれる口調で、ふいに言いだしたのです。初めは冗談かと思って聞き流していたのですが、話しているうちに、これはどうも本気だということがわかり、両親にそれを伝えたところ、初めはそんなまさかと驚いて、特に仕事をどうするんだと心配していたものの、そのあたりのことも含め何度か話すうちに、私たち夫婦が住んでくれるならそんなありがたいことはないということになり、、話が急速に具体性を帯びてきて、先日お泊まりした際、義母にも経緯を話して理解を得て、たった一週間のうちに、私たちが一家で島根に暮らすという、急展開が決定したのでした。
 ひ孫が一緒に住み始めると知って、祖父も喜んでいるそうです。我が家は二世帯住宅で、祖父が一階、私たち一家が二階に住むことになります。祖父は耳が遠かったり体が弱っていたりはするものの、今のところ一通りの生活をひとりでできるし、リハビリのデイサービスにも通っているし、市の人も定期的に来てくれたり、近所には世話やきの叔母もいるので、私たちが祖父の生活に積極的にかかわることはなさそうですが、娘の顔を一日一度は見せに行ったり、可能なときは一緒にお茶を飲んだりぐらいの孝行はできればいいかなと考えています。

 再び実家で暮らす日がくるなんてことは、思いもよらないことだったけれど、遠くないうちになにかしら生活に変化があるかもしれないな、という予感はありました。実は今年の春あたりから、夫が転職を考えはじめていて、実際に求人情報を見たりしていたのです。もの作りの現場で働きたい、というのが夫の希望で、しかし、もの作りとなると一般的に勤め先は工場になり、工場は都心よりむしろ都下や地方のほうが多いから、転職することになったら、少し田舎にいくかもしれないな、それならそれでいいなぁ、と、ぼんやり思っていました。
 また、私自身も、娘が生まれて以来、都会で生きていく自信をどんどん失っていき、自分の生まれ育ったのと似た環境で子供を育てたいという思いが、強まってきていました。だからこれは、私にとっても夫にとっても、そしてきっと娘にとっても、ちょうどいい機会だったのかなと思っています。
 この2年間は、家賃が発生しないぶん、雇用形態や賃金にそれほどこだわらず余裕を持って仕事を選べると思うから、やりたい職種の世界でしっかり手に職をつけて、後の仕事選びに繋げていけるような働き方ができたらと考えています。それに私も、この機会に、在宅でテープ起こしの仕事を少しずつ始めてみることに決めました。2年間、私も夫もそれぞれの目標をもって働いて、できるだけ貯蓄をして、今後の暮らしの土台を作っていけたらと思っています。それに、なんといっても娘には、たくさんの自然を味わわせてやりたいです。

 島根に行くことが決まった時、想像して最も心が乱れたのは、今身近にいる大事な人たちの反応でした。
 義母は初め驚いて、やはり仕事のことを一番に心配していましたが、話すうちに理解してくれて、義祖母や義理姉たちにも、すごく上手に説明をしてくれました。それに、あとからメールで「どこにいても、元気に幸せに暮らしていてくれれば、親は嬉しいよ」と言ってくれて、その一行に泣きました。そして、結婚式のとき、しめくくりの挨拶で、司会の方から「息子さんを今日まで育てられてどうでしたか」と訊かれ、一言「とってもおもしろかったです」とほがらかに答えたことを思い出しました。私も、大人になった我が子を、そんなふうにおおらかな目で見つめられるような子育てがしたいです。
 それから、いつも一家で遊びに来てくれる友達は、最初の一行で、「それはにぱぴこたちにとって、とてもいい選択だと思う」と、言ってくれました。それから、「私たちの年代で子供がいる家族の生活環境はまだこれから固まって行く途中だと思うから、一番楽しくなかよく過ごせる道を探して、いろんなことをしていいんだ」と、言ってくれました。それはもう、できることなら、メールの文をまるごとここに書きうつしたいくらい、心打たれる、力強くて優しくて、思慮深い文章で、こんな文章を私のために打ってくれる人と私は友達になれたのだと思うと、嬉しくて誇らしくて、それだけでもう、東京で暮らした10年間が輝いた気がしました。メールを何度も読み返して、最後の「大丈夫、応援してます。きっときっと楽しいよ。」という言葉をかみしめて、前を向いていこうと、やっとはっきり腹をくくるができました。
 大学時代、もうひとりすごく仲の良かった子がいて、その子にもメールをしたら、すぐに、「あした、6月の仕事のシフトを確認しておく」と返信がきました。シンプルなそのメールに、彼女らしい、清らかでためらいのない友情の形を感じて、かっこよさにしびれながら、きっとこの子とも、距離が離れたからと言って、関係性が変わることはないだろうと、その短い文面から、確信することができました。
 本当に、東京での出会いは、夫との出会いも含め、宝物なんて言葉じゃまだまだ足りない、私の人生の芯となり翼となるような、かけがえのないものです。だから、離れることになったけれど、私が東京に出てきたことは、文句なしの大正解だったと、胸を張って言えます。

 この3人のうちの、誰か一人でも、一言目に「寂しい」という言葉を言っていたら、私は、引っ越すまでも引っ越してからも、何度もその言葉を思い出して、胸がつぶれそうになったことでしょう。だけど、私の大事なひとたちは、その一言を、言わないでくれました。私が逆の立場だったら、一言目にも二言目にも、寂しいと、言ってしまうに違いありません。だけど、私の大事な人たちは、そんなやわな人たちではありませんでした。人を送り出す姿勢を、学んだ気がします。
 きっと、義母も、ふたりの友達も、自分の生き方に、きちんと、自信を持って暮らしているのだと思います。自信をもって暮らすということは、人を見下し高みに立つとでも、派手な自慢話が尽きないことでもなく、自分の人生を冷静に見つめて、そのなかに、自分はこのやり方でいいのだと確信できる何かを見出しながら生きていくことのできる人のことだと思います。そういう生き方をしている人は、人を気持ちよく送り出すことのできる人なのだと思います。私もそんなふうに、なれるだろうか。

 長い日記になりました。東京を離れることになって、東京への想いが、毎日毎日、あふれてきます。10年住んで、少し疲れてしまったけれど、10年前より、ずっとずっと、愛しているのです。そんな想いも、これからしばらく、ここに書き遺していくつもりでいます。生活が変わることへの、覚悟はいまいちできていないけれど、不安より希望のほうが今は、大きいから、きっと大丈夫です。

 今日は、メールをくれたその友達がいつものように一家で遊びに来て、いっぱい遊びました。子供ちゃんが、娘の絵と、それから私の絵を描いてくれました。私の絵を描いてくれたのは初めてで、あとちょっとで泣いてしまうところでした。大事にします。娘は子供ちゃんのことが大好きで、抱きついたり追いかけまわしたり真似っ子したり、あまりにしつこかったり積み木を崩してしまったりして子供ちゃんのご機嫌を損ねてしまったときも、とにかくずっと楽しそうにしていました。そんなふうに大はしゃぎで遊んだあと、帰り際に子供ちゃんから、「どうして引っ越しちゃうの?」と聞かれて、言葉に詰まりました。なんて説明したらいいのだろうな。引っ越しって、引っ越すほうも引っ越されるほうも、どんな理由であれ、子供にとっては理不尽な出来事です。子供ちゃんは幼稚園があるから、平日は無理だけれど、引っ越す日まで、できるだけたくさん会って、娘と子供ちゃんを、たくさん遊びたいです。
by papiko-gokko | 2012-05-27 00:18 | Diary
摘み取ってそっと差し出すタンポポの綿毛がきみに風を教える
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 犬と一緒に土手をお散歩するのが、実家での日課です。昨日のお散歩では、娘がはじめて、自分の手で花を摘みました。小さなタンポポの花を短くぷつんと摘み、嬉しそうに手に持って駆け寄ってきたので、帽子につけてやりました。走り回っているうちにいつの間にか取れてしまったけれど、黄色い色が、白い帽子によく映えていました。今日のお散歩では、タンポポの花びらをむしって、風に飛ばしていました。タンポポとすっかり仲良しです。
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 土手には綿毛のタンポポもたくさん咲いていて、ふうっと吹き飛ばしたら、風に乗ってどんどん野原へ広がっていき、娘はシャボン玉を追いかけるときと同じように、両手をひろげて綿毛を追いかけていました。原っぱは、遊びの宝庫です。
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 家の中では、私や妹たちが小さいころに買ってもらったおもちゃを屋根裏部屋からひっぱり出してきて遊んでいます。屋根裏部屋からは、記憶の片隅で埃をかぶって眠っていた懐かしいおもちゃが次から次へと出てきて、娘よりもむしろ私や妹たちのほうが興奮気味で遊んでいました。今回は、娘の遊べそうな積み木とブロックとままごとと音の出るシートだけ出しましたが、まだまだ、シルバニアファミリーやらリカちゃんやらセーラームーンやらちびまる子ちゃんやら、なんだかんだと山ほどありました。子供のころ、そんなにおもちゃだらけだった記憶はないのだけど、3人姉妹がそれぞれ誕生日に、両方のおじいちゃんおばあちゃんからほしいおもちゃを買ってもらっていて、それに加えてクリスマスにはサンタさんからももらっていたから、最終的にものすごい量になったのだと思います。おもちゃを散らかした部屋をみて、母が「あんたたちの小さいころに戻ったみたいだわ」と笑っていました。もう少し娘が大きくなったら、シルバニアやリカちゃん関係も持って降りるつもりです。はやく遊びたい!
by papiko-gokko | 2012-05-05 14:14 | Diary
帰省2日目
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 半年ぶりの里帰り。飛行機では着陸のころ娘が暴れだして大変でしたが、昨日の夕方に無事到着し、みんなにちやほや可愛がられながらご機嫌で過ごしています。体調を崩して3か月近く入院していた祖父も少し前に退院して娘の事を心待ちにしてくれていたようで、昨日夜ご飯のあと、やさしいやさしい顔をして、長いこと遊んでくれました。珍しい人たちと遊んで刺激をいっぱい受けて、娘もとても楽しそうです。昨日は移動と出会いでくたびれて、こてっと寝てくれました。
 今日は犬たちと一緒に散歩にでかけて、広々としたまっすぐの道を、たったかたったか走り回っていました。虫刺されには気を付けなければならないけれど、人も車もめったに来ないから、。綿毛のタンポポを一輪摘んでふーっつ飛ばしたら喜びました。東京でもやろうとしたのだけど、タンポポの茎がものすごく太くてちょっと力を入れたぐらいでは摘むことができず、諦めたのでした。雑草生え放題のやわらかな土の上に悠々と咲くタンポポと、東京でアスファルトの隙間に意地で踏ん張って咲いているようなタンポポとでは、強さがまるで違うのだなぁ。東京のタンポポ、かっこいいです。
 父と下の妹は仕事があって5月になってから帰ってくる予定なので、それまでは母と上の妹と祖父に、たっぷり可愛がってもらいながら、のんびり過ごそうと思います。
by papiko-gokko | 2012-04-29 17:43 | Diary
帰省8日目
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 帰省してから、毎日お出かけしたりお客さんが来たりと何かしら行事があり、あっという間に一週間が過ぎました。「パパと離れている間にあんまり成長しないでね・・・」という夫の願いをよそに、娘はこの一週間で、またできることが増えました。テーブルやソファに掴まりしっかりとした足取りでつたい歩きができるようになったし、それから、ボール遊びも上手になりました。やわらかいボールを座っている娘のほうへ転がしてやると、両手でそれを素早くキャッチして、それからつまむようにして片手で持ち、こちらに向かってぽんっと力強く投げ返してきます。娘の投げ返してきたボールを、私が身を乗り出してオーバーリアクションでキャッチすると、娘はそれが楽しいらしく、声を立てて笑います。
 一週間の間に、最初のころはじっと睨んでばかりいた祖父(娘のひいおじいちゃん)ともずいぶん打ち解けて、にこにこ笑顔をみせては、祖父を喜ばせています。祖父はつい足腰が痛いことも忘れ屈みこんで娘のお相手をし、立ち上がるときにアイタタタと顔をゆがめて、妹に呆れられながらさすってもらっていました。娘がテーブルをバンバン叩けば「こな(この子)は音楽の秀才だが」と言い、娘がテーブルで力強くつかまり立ちしているのを見れば「こなは体操の選手になぁわ」と言い、私たちを笑わせながら、娘の未来にきらきら明るい眼差しをくれます。
 東京へ戻る日まで、あと一週間弱。前半は人との交流が盛りだくさんで刺激的だったから、後半は家でのんびりと過ごすつもりです。
by papiko-gokko | 2011-10-18 16:57 | Diary
帰省5日目
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 帰省してからあっという間に5日間が過ぎ、娘もすっかり実家の雰囲気に慣れて、毎日楽しそうにハイハイとつかまり立ちで動き回っています。母がおむつを替えたり離乳食を作ったりしてくれるし、妹もいるときには常に娘を見ていてくれるので、私は毎日かなり楽をさせてもらっています。
 昨日は、妹たちに挟まれながら初めてピアノに触らせてもらって、とても楽しそうでした。妹がポロロロンと片手で簡単な曲を演奏すると、その手をじっと見つめながら音を聴き、そのうち自分でも鍵盤を両手で叩いたりして、音がでるのを面白がっていました。おばちゃま二人にたっぷり可愛がってもらえて、よかったね。
 実家で最もにぎやかな存在である下の妹は、相変わらずバイトやら卒論やらで忙しいらしく、昨日岡山に戻ってしまったので、家は少しさみしく静かになりましたが、今日は高校時代の後輩の子が会いに来てくれたり、明日もまた友達が来ることになっていたり、毎日なにかしら行事があり、刺激的な毎日です。
 後輩の子は、高校時代の可愛らしさを保ちつつも大人っぽい雰囲気になっていて、甘い香りがして、会ってしばらくはドキドキそわそわしました。娘ははじめ少し人見知りしたものの、すぐに慣れて、ご機嫌で遊んでもらっていました。自分や同じ部活だった子たちの、高校時代の話や、最近の話をして、しみじみと時の流れを感じました。高校時代なんて、少し前までは、たったこの前のことのように感じていたけれど、今はもう、目を細めてそうっと息を吹きかけなければ、思い出せないことばかりです。
 明日も娘はまた初めての出会いをして、顔を見て声を聴いて匂いをかいで、新しい刺激を受けることでしょう。東京に戻ってくるころには、精神的にぐんと成長していそうです。
by papiko-gokko | 2011-10-15 18:33 | Diary
帰省一日目
 昨日帰省しました。娘は空港へ向かう電車で少しぐずったものの、飛行機ではずっと寝ていてくれて、助かりました。空港までは、夫が付き添ってくれました。別れ際は寂しくて、夫への愛しさと執着心が普段の何倍にも膨れ上がります。さっと走っていってお土産を買ってきてくれたり、オムツを替えてくれたり、そういうことひとつひとつが感動的に映り、なんて心地よく心強い存在なのだろう!!と、どんどん離れがたくなります。ゲートをくぐる直前、娘が夫の服をきゅっと掴んだときには、自分がものすごくひどいことをしている気がして、胸が締め付けられました。今度は三人で帰れたらいいな。

 実家では思っていたほど人見知りせず、しばらく警戒心と興味をむき出しにした目で母や妹や祖父をまじまじと見つめては私の胸に顔をうずめるということを繰り返し、そのうちだんだんとその表情が柔らかくなってきて、はじめのうちは私にしがみついていた手の力も徐々に弱まり、リビングに座らせると部屋を動き回り始めました。いつもと違う環境で、鼻息荒くあっちにハイハイこっちにハイハイ、つかまれそうなところを見つけてはたっちしてきょろきょろ落ち着かず、みんなからワイワイかまってもらって、寝る直前までずっと上機嫌の興奮気味でした。普段は三人暮らしで一日の大半は私とふたりだから、こんなにたくさんの人に囲まれて賑やかに過ごすのは、さぞ刺激的なことでしょう。みんながわっと一度に笑うと、娘も楽しそうに、身体を弾ませて笑います。

 今日は実家用のバギーと椅子を買いに行ったり、親戚のうちへ顔見せにいったりしました。車の窓から見慣れた町並みを眺めていると、なんだか、自分の指紋をじっくり眺めているような気分になります。出雲の空は薄曇りで、妹が「いかにも出雲って感じの天気」と言っていました。
by papiko-gokko | 2011-10-12 17:38 | Diary


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