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日記と短歌


by papiko

<   2017年 06月 ( 18 )   > この月の画像一覧



 昨日の夜、ひさしぶりに長女がなかなか寝付けずぐずったので、抱きしめて子守歌を歌いました。小さい頃、毎日歌っていたお決まりの数曲です。4歳ぐらいまでは、毎日かならず全部歌わなければ寝てくれませんでした。歌っている曲はずっと変わらないのに、抱きしめている長女はいつの間にかずいぶん大きくなって、そういえばここ最近は長女にこうして子守歌を歌ってやることが全然なくなっていたなぁと気づき、なんだか泣けてきて、喉がつかえそうになりながら歌いました。
 こんなふうに、赤ちゃんのころから続いていたいろいろなかけがえのない習慣が、ゆるやかにいつの間にやら消えていき、もう何もかもがすっかり遠ざかってから、時の流れにはっとするのだろうか。6歳の長女は、まだギリギリ子守歌を必要とする夜があるらしく、子守歌を一通り歌ってやったら、すぐ眠りに落ちました。よかった、まだ私の子守歌は、彼女の中で、ギリギリ過去になっていない。
 毎晩、おやすみの前、長女に「今日の楽しかったことは何? 」とを尋ねると、「たし算! 」とか「草抜きのとき、アリがお菓子みたいなものを運んでたこと! 」とか、いろいろなことを答えてくれます。そして、今日のつまらなかったことや、残念だったことや、怖かったことなども教えてくれます。今日は「ひき算は、なんか怖い感じがして、たし算より苦手。何かが引かれて無くなるって、ぞわわーって感じ。一体なにが無くなったの?なんで無くなったの?だれがとったの?どこに消えたの?ってミステリーみたいで、ちょっと怖いじゃん」と言っていて、なるほどなあと思いました。長女が数字の世界にそんなドラマを感じながら計算していたとは知りませんでした。ただ単に引き算が今日あまりうまくやれなかったことへの言い訳かもしれませんが、長女の物語はよくこうして、言い訳から生まれるのです。幼稚園のころよりも、出来事や思いを伝えるのが格段にうまくなりました。やはり小学生は違うのだな。次女が起きていると、なかなかゆっくり長女の話を聞くことができないから、このおやすみ前の数分の会話が、とても大切です。

 どんどん成長していく長女の姿が、幼い時期の短さ、かけがえのなさを、日々教えてくれているのだけれど、それでもやっぱり、次女とふたりの時間を、常に楽しみ大切にできるかといえば、そうではなくて。むしろ、次女にまとわりつかれてあれこれ言われて疲れすぎて、ひとりになりたい・・・・・・解放されたい・・・・・・と思い続けているような時もあります。明日はもっと明るく優しく元気に接するようにしよう、たくさん遊んでやろう、と毎日思うのに、3歳児のパワーとワガママにはやっぱり、ついていけなくて、今日は何度も、小さな次女相手にケンカしてしまいました。なんでもかんでも私にしてもらおうとするくせに、言うことは聞かなくて、それでいて常に私のそばを離れようとしない、そんな次女に、体も心もついていけなくて、気が滅入って、ひとりで音楽を聴いていたくなります。今日は午前中、買い物のあと、しばらくお風呂場でおりこうに水遊びをしてくれたので、その時間で家事ができました。そして、さあ休もうと思ったところで「もうでるー」という次女の声がして、そのあとは、お昼ご飯を作っていたら、次女も切りたいというので一緒にウィンナーを切って、お昼のあとは、私が夜ご飯の下ごしらえをしているあいだ、次女はねんどなどしていて、それからお絵かきして、絵の具も出すと言い出して出したけれどもほとんどせず、積み木もして、そのあとはもう、どうだったか、思い出せないくらい、気が滅入ってしまっていました。でもこうして書いてみると、私の気が滅入るほどに、次女はそんなに悪い子だったかな。次女が寝てしまうともう、悪い子だったときのことはもうほとんど忘れて、可愛かったことや、可哀想なことをしてしまった場面ばかり思い出します。昨日も今日も雨で公園に行けなかったから、それで次女もイライラしていたのかな。明日は、朝一で栄養ドリンクを飲んで、元気の出る曲でとにかく元気を出して、七夕飾りを作ったりしよう。夏休みになればまた、長女がいてくれるから、状況も変わってくるだろう。かけがえのないものを大事にし続けるというのは、なんてパワーのいることなのだろう。


by papiko-gokko | 2017-06-29 23:50 | Diary | Comments(0)

 私と子どもたちと、それから私の両親とともに、比較的近隣に住む母方の祖父母のところへ行きました。祖母は認知症が進んでいて施設にいるので、最初に祖父と会い、一緒にファミレスで昼食を食べてから、祖母の施設を訪問しました。祖父も少し認知症が始まっているそうなのですが、まだ普通に会話もできるし、動きがスローになったことと声が小さくなったこと以外、昔とほとんど変わりません。私がどの孫かを思い出すまでに少し時間がかかったり、私が結婚していることを忘れていたり、そんな感じでたまにちょっと驚くこともあったけれど、思っていたほどの寂しさは感じませんでした。
 基本的に人見知りをしない長女は、祖父の前でも元気いっぱいで、歌をうたったり、覚えたばかりの足し算を披露したりして、祖父はそのたび、子どもの頃私がはしゃいだときにしたのと同じ、ふかふかした笑い声をたて、長女の心を盛り上げました。次女はじっと祖父を見つめて固まっていましたが、人見知り全開で大泣きした前回のようなことはなく、そのうちに慣れて、普段通りのワガママな次女になって、次女のワガママっぷりにもやはり、祖父はふかふか笑いました。
 祖母の施設に行く前に、少しだけ港に寄って、魚釣りをしている人のそばを散歩しました。人懐っこい祖父は、同い年ぐらいのおじいさんに、「釣れますかな」と話しかけて、それからもしばらく世間話で盛り上がっていました。祖父と一緒に、食べ物屋さん以外の場所へ行ったのは、とても久しぶりで、懐かしい感じがしました。子どもの頃は、祖父母の家へ遊びにいくたび、いろいろなところを連れて行ってくれて、おもちゃを買ってくれて、写真をたくさん撮ってくれて、だから祖父母の家に行くのが大好きでした。今でも、祖父母の住居につながっている階段を見ると、これから起こるであろう楽しいことへの期待で胸を膨らませながらその階段をだだだだっと駆け上ったときの気持ちが蘇ってきて、無条件にワクワクします。

 祖母の施設は和やかな雰囲気の場所でしたが、それでもやはり、ふだんの暮らしとはまったく違う空気が漂っていて、緊張しました。子どもたちはたぶん、私以上にそれを敏感に感じ取って、緊張していたようです。祖母はちょうどお昼寝中だったけれど、職員の方に起こしてもらい、私たちを見ると「あらいらっしゃい」と言いました。もうずっと前から、私のことは分からなくなっていて、母や父のことも分かっているのかいないのか微妙なところですが、寝起きにもかかわらず、ご機嫌で迎え入れてくれました。
 職員さんが祖母をベッドから車椅子に移してくれようとするとき、祖母は急に「いたーい!」とか「いやあー!」と子どもみたいな大声で言ったので、子どもに返るって本当なんだなあと、これには少し驚きました。しかし、かと思えば、祖父を見て「おとうさん(祖父のこと。昔からそう呼ぶ)、これえ」と、祖父のひげが伸びているのを気にして眉をしかめたり、子どもたちを指さして「おとうさん、うちに、このこら一緒に連れていったらええが」と、昔の口調そのままに提案したりなど、急に大人の顔に戻ったりもして、不思議でした。どうやら、祖父に対して話すときは、すっと大人の妻になるようです。私や子どもたちが誰なのかを認識していなくても、子どもたちを見て「かわええなあ、かわええ子じゃなあ」としきりに可愛がってくれて、長女のほっぺたを触ったり、次女のいたずらを見て声を立てて笑ったりしました。
 子どもたちは、ふだんお年寄りと関わることが少ないので、さすがの長女もここでは萎縮して、ずっと黙っていましたが、決して暗い表情ではなく、緊張気味ながらもずっと微笑して祖母のそばにいて、そんな長女を頼もしく思いました。次女は、前回玄関で大泣きして入れなかったのだけれど、今回は私にしがみついてなんとか入り、泣かずに対面して、最後は握手もできました。
 認知症になって私を忘れてしまった祖母と初めて対面したときは、自分の一部が削れたように悲しくて寂しくて涙がにじんだけれど、今はもう、悲しくありません。初めて会ったような顔で私を見る祖母に「孫の○○だよ、これはひ孫の○○と○○だよ、こんにちは」といいながら、祖母のぶんまで、自分自身が何かを再認識しているような、新鮮な気持ちになれます。悲しいことのはずなのに、もうちっとも悲しくないのは、祖母が少しも悲しそうではないからかもしれません。以前よりずっと小さくなった体で、母に髪の毛を撫でられながら、子どものようなつぶらな瞳でみんなを見つめ、祖父に対してだけは、キリッと急に妻の顔になる、そんな祖母は、決して、不幸に見えませんでした。大人になったり可愛らしい子どもになったりする祖母を見ていて、ちょうど先日読んだ『魔女の宅急便その2』に出てきた、トンボのこんな言葉を思い出しました。
「たぶん、あのおばあちゃん、自分の時間をもってるんだよ、自分だけの・・・・・・。ぼく、いくつもつくってみてさ、みんなそれぞれ、自分の時間をもってるんだって思ったんだ。いもはいもの時間、ありはありの時間。人は、かってに自分の時間でいろんなこと考えるから、へんに思ったりするんだよ」
 今の祖母もまさに、そんな感じです。祖母の内側にある、祖母にしか分からない時間のなかを生きていて、それはおそらく、とても穏やかな世界なのだろうということが、祖母の表情から分かりました。私たちは日々、進んでいく一方の時間軸をなぞって生きているけれど、祖母は、そんな外側の時間軸とは無関係な、祖母の内側だけにある、水晶玉のようにまんまるいかたちをした、人生の欠片が集まってできた時間の結晶のなかを、ぐるりふわふわぐるりふわふわ漂いながら生きているのではないかと思います。私たちは今日、そんな祖母のまるい時間に、ほんの少し触れることができたのかな。帰り際、次女と一緒に祖母と握手をしたとき、祖母の手は赤ちゃんみたいに柔らかく温かくて、驚いたのと同時に、ほんわか優しい気持ちになりました。
 きっともう、今日私たちに会ったことを祖母は忘れているし、祖父もはっきりとは覚えていないのかもしれません。だけど、それを寂しいことだとは、少しも思いません。会っていたそのときには、祖父も祖母も笑っていて、その笑い声は、昔と変わらなかったし、忘れられてしまっても、私や子どもたちの中に、祖父母の血が流れていることに変わりはないのだと思えば、寂しくなどありません。それに、たとえいろいろなことを忘れてしまっていても、この世であたたかい手をして生きてくれている、今日それを感じられただけで、自分の命があたたまるのを感じました。行く前は、正直ちょっと億劫だったのだけれど、会いに行けてよかったです。
 

by papiko-gokko | 2017-06-25 21:06 | Diary | Comments(0)

表現


 今日は日記を書かないつもりでいたのだけれど、Siaの『Big Girls Cry』と『Chandelier』を繰り返し聴いていたら、なんか書かなきゃ!という気持ちになりました。珍しく、youtubeを張ったりまでして。


 最近、女性アーティストに出会いたくていろいろ聴いていたら、Siaに出会いました。ハスキーでパワフルな歌声も詞もすてきだし、それに、ミュージックビデオに出てくるダンサーのすさまじさに釘付けになります。こんなふうに、感情を歌声にすべて流し込むようにして歌い上げることができたら、身体中から感情を迸らせて踊ることができたら、どんなにすばらしいだろうかと、うっとりします。だけどそんなこと、私にはできない。『Big Girls Cry』なんて、なんだか自分を見ているような気さえしてくるけれど、こんな表現、とてもできない。学生時代、現代詩の講義の一貫で、前衛芸術の舞踊みたいなものを観賞したことがあり、そのときはホールまで行って生で見たにもかかわらずあまり心を動かされなかったのですが、今、このミュージックビデオを見ていると、ぐわんぐわん心が動かされ、教授が学生にあの舞踊を見せて伝えたかったことが、やっと理解できました。たとえば言葉で、こういうものを表現しようとするとき、やはりそれは、詩になるのでしょう。Siaの歌声のように、ダンサーのように、もっともっと自由に、のびやかに、力強く、言葉で感情を表現できたら、どんなにすばらしいだろう。どうすれば、それができるのだろう。

by papiko-gokko | 2017-06-21 23:06 | Diary | Comments(0)

れりぴー


 今日は次女とふたりで、幼稚園へ遊びに行くはずでした。しかし、駄目でした。出かける前の段階で、何かいつもと私の様子が違うと察知した次女がどこへ行くのかしつこく尋ね、私が「今日はちょっと幼稚園へ行ってみようかと思って」と一言言った瞬間から、「いやだ、いかない」と、しくしく泣き出してしまいました。それでも楽しそうな幼稚園の前まで連れて行けば気分が変わるかもしれないと思い、自転車に乗せて連れて行ったのですが、門の前まで来て、園庭で遊んでいる園児たちの様子を見た次女は、ますます「行かない!行かない!」と自転車の荷台にしがみついて泣きじゃくり、とてもじゃないけれど、門をくぐれる感じではなかったので、諦めました。実際、アウェイ感みたいなものはすごくあって、かつての長女のように「うわーい!」と大喜びで飛び込んでいくタイプの子を連れていれば、私も勇気を出して門をくぐれたけれど、泣きじゃくる子を連れてむりやり入る度胸はありませんでした。
 この日記を遡ってみると、長女もちょうど次女と同じくらいのとき初めて幼稚園に遊びに行っていることが分かり、そのときの日記 を読んでみて、改めて衝撃を受けました。初めての場所にもかかわらず、長女はまったく怖がったりせず、それどころか私から平気で離れて、在園児に混じって遊んでいたのです。姉妹でこんなにも違うのかと、驚きます。長女に比べると、去年まで毎日送り迎えに行っていた次女のほうがよほど幼稚園という場所には慣れているはずなのに、長女のほうが平気で、次女がこんなに怖がるなんて。別に幼稚園で意地悪されたりなんかしなかったとは思うのだけれど、ブランコが混んでいて乗れなかったり、やっと乗れたと思ったらすぐ他の子に「かーわってー!」と言われて泣く泣く変わったり、ちょっと何かに触っていたら園児に「それ、今日はあそんじゃ駄目なんだよ!」と言われて泣いたり、そういう小さなことは何度もあったので、そういうことの積み重ねで、怖い印象がついてしまったのでしょうか。
 楽しそうな園児たちの声を背に、とぼとぼ自転車を引いて幼稚園から離れ、公園に向かいながら、「楽しいのに、どうしてどんなに行きたくないの?」と聞いたら、「だって、おともだち、怖いんだもん、人がいて、怖いんだもん」と、次女はしゃくり上げながら答えました。困ったなあ。これからも、近所の幼稚園に遊びに行ける日はちょくちょくあるけれど、ほとぼりが冷めるまで、しばらく連れて行くのはやめておこうかなと思います。
 人前で失敗をしたり、その失敗を誰かに指摘されたりすることを極度に嫌う次女なので、あんなアウェイな雰囲気の中でビクビク遊ぶくらいなら、たとえ行き飽きた公園でも、一人でのびのびと遊ぶほうがよほどいいのでしょう。それは私も同じです。次女のことだから、入園するころには、心の準備が整うのではないかな。今まで、あらゆることがそうであったように、彼女は、自分のなかで準備や覚悟が整ってもう絶対に大丈夫と思えなければ、頑なにスタートしない人だから、あまりこちらがあれこれ言わないほうが、いいのかもしれません。
 それにしても、これは彼女の性格だから直しようがないのかもしれないけれど、ちょっとぐらい人前で失敗しても大丈夫なんだよ、間違いを指摘されたって平気なんだよ、あなたの存在を全否定しているわけではないんだよ、ということを、入園までに少しでも、次女の心に伝えられたらと思います。家ではいくら叱っても平気な顔で、ハチャメチャな子なのに、内弁慶外地蔵って、本当にこういう子のことを言うのだろうなぁ。どうなることやら。
 家に帰ってからも、次女は微妙に情緒不安定を引きずっていましたが、「ホットケーキつくろうか」と提案したら、ぱっと顔が明るくなって、「つくるつくる!」と大張きりでキッチンへ飛んでいき、卵と牛乳と粉を入れたボウルをまぜまぜするうちに、辛い気持ちはすっかり吹き飛んだようでした。ひかえめな音でビートルズを聴きながら、ふたりでいびつなかたちのホットケーキを焼いて、バターとハチミツをたっぷりかけて、時間を気にせずのんびり食べて、もうすっかり、午前中の挫折感は消え去りました。
 途中、何曲目かで「let it be」が流れて、次女がけろっとした顔で「これ、れりぴー?」と聞いてきて、ああ、本当に、れりぴー・・、私たち、れりぴーで生きていくしかないわ・・・れりぴーでやっていこう・・・と、心が軽くなりました。基本はジョン派の私だけれど、何か辛いこと、落ち込むことがあったようなとき、すうっと心を救ってくれるのは、ポールの曲が多かったりします。アルバム『Let It Be...Naked』のI Me Mine、Across the Universe、そしてLet It Beという流れ、最高に好きです。今日はもう、この3曲にすべてが濃縮されているような一日でした。


by papiko-gokko | 2017-06-19 23:28 | Diary | Comments(0)

土日の日記


 土曜日、午前中は一家でカラオケに行きました。子どもたちの遊べるキッズスペースが設けてあるところで、前回連れて行ったときにはそこでたっぷり遊んでいてくれて、夫と2人でのびのび歌えたので、今回も2人で歌ってストレス発散する気満々だったのですが、今回、早く行きすぎてキッズスペースの準備がまだ整っておらず、照明が暗かったりふわふわドームにまだ空気が入っていなくてへちゃげていたりしたことで、次女の心に大きな恐怖心が芽生えてしまい、「あそばない!!」と泣き出し、キッズスペースの準備がすっかり整って長女が遊び始めてからも、私たちのそばを離れず、次女を膝に乗せながらでは、何を歌っても、ストレス発散にはなりませんでした。次女の涙ですっかりテンションが下がってしまった私と違い、夫は気持ちを切り替えてたくさん歌っていたので、えらいなあと思いました。長女も、次女と一緒に遊べなくて残念だったろうに、そんなそぶりはさほど見せず、それならしかたないと切り替えたらしく、一人でしっかり楽しく遊んで汗びっしょりになり、たまに戻ってきてラプンツェルやアナ雪を熱唱して、たぶん一番今回のカラオケを楽しんでいて、そんな長女のことも、えらいなあと思いました。夫と長女は、そういうところが似ています。細かいマイナス要素に引っ張られず、その場をしっかり楽しむことのほうに頭と心をもっていける、ふたりのそういう力に、私はいつも助けられています。長女の場合、ちょっとその力が暴走しすぎて、困ることも多いけれど。

 土曜の午後から日曜の午前中までは、怒濤のテープ起こしでした。超特急納品の仕事がどどっと舞い込んで、必死でやりました。ものすごく大変でしたが、カラオケで発散できなかったストレスは、そういえば発散できた気がします。言葉の世界をごうごう彷徨いながらキーボードを打ちまくるという作業は、何よりのストレス発散になります。どんなに調べても分からない言葉があったときなど、仕事で溜まるストレスもあるけれど、育児で溜まるストレスとはまったく別物なので、仕事にぐわーっと集中していると、育児のストレスが蹴散らされていく感じがします。今日はちょうど日曜日で夫が午前中のあいだ子どもたちを連れ出してくれていたので、誰もいない部屋で集中してできて助かりました。納品し終わったときにはもうくたくたで、肩はガチガチで足も痙りそうになっていて、テープ起こしってつくづく体力勝負の作業だなあと実感しました。
 疲れたので、午後はのんびり、子どもとディズニーのアラジンを見たりして過ごしました。自分の中でいまディズニー映画ブームがきているので、ひさびさのアラジンも楽しかったです。長女は最後まで真剣に見ていたけれど、次女はあっという間に飽きてしまいました。アラジンはさほどキラキラしたプリンセスの出てくるお話ではないから、次女にはちょっととっつきにくかったようです。
 そんな感じで、あっという間に過ぎた土日でした。そういえば今日は父の日だったので、長女と次女、夫にプレゼントを渡していました。最初はちょっと手伝ったりしましたが、長女はもう私がさほどあれこれ言わなくても自分で考えて準備できるようになってきて、私が仕事をしているうちに完成させたようです。さすが1年生。渡したあと、照れて子ども部屋に走って逃げ込み隠れてしまったのにも、成長を感じました。そんな長女は初めてです。女の子になってきたのかな。

by papiko-gokko | 2017-06-18 23:22 | Comments(0)

 ようやく金曜日。長女も元気に帰ってきました。火曜、水曜あたりが、心身ともに一番しんどかったようです。これまで、長女が外で溜めてきたストレスを家で私や妹にぶつけるなんてことはほとんどなかったので、破裂寸前の風船みたいな長女のとげとげしい態度に戸惑いましたが、これからはこういうこともしばしば起こるのだなと、よい勉強になりました。今日は宿題もご機嫌に終わらせて、そのあとは次女と仲良く、頭にスズランテープをくっつけてラプンツェルごっこをしていました。ここ数日なりをひそめていた熱唱もひさびさに聴けました。ふだんの明るい長女に戻ってくれて、ほっとしています。
 毎日長女と家庭学習するうちに、どう言うと長女が機嫌を損ねてふてくされ、どう言えばやる気を出して取り組むか、だんだん分かってきました。宿題をやっている最中に「ちょっとその字、雑すぎるんじゃない」など否定的な言葉を言ってしまうと、相当カチンとくるらしく、すぐに怒って半泣き状態になります。だから最近は、ああ雑だなあ・・と思っても我慢して、そのかわり、ほんのちょっとでも褒められそうなポイントを見つけたらすかさず「その文字、丁寧に書けたじゃん、すごく上手」と、ほぼお世辞でもいいから褒めることにしています。そうすると長女のプライドに火がついて、褒められたからには雑なことできないぞと思うらしく、やる気をもって取り組んでくれます。しばらくはこの方法で、ご機嫌に勉強できるよう努めたいです。どうせまた、こうしてやっといい方法を編み出したと思ったら、またその方法では通用しない状況が訪れて、悩むことになるのは、もう目に見えているけれど。
 今日は夜も、昨日みたいに険悪なことにならず、楽しく本を読んで、そのあと私にいろいろ学校のことを話してくれてから、眠くないなーとぼやきながらも、すんなり眠りに落ちました。昨日の夜、私が怒ったことを、長女はもうほとんど覚えてないらしく「昨日はすごく眠かったから、夜のことはもうぜんぶ夢の中にいっちゃってる」と言っていました。そんな半分寝ていたような子相手に、私は本気で腹を立てて、涙すら浮かべたのか。長女も泣いたのに、それも覚えていないようです。6歳なんて、まだまだそんなものなんだなぁ。今日など寝る前に「ちょっとだけゆりかごして」と言ってきて、小さい頃よくしていたように、座って長女を抱きかかえゆらゆらゆすりながら『ゆりかごのうた』を歌ってやると、目をとじて体をまるめて、赤ちゃんのころと同じおでこをして聞いていました。体はもうすっかり大きくなって赤ちゃんの気配はおでこあたりにしか残っていないけれど、心はまだまだ、赤ちゃんじゃなくなったばかりの、小さな甘えんぼの女の子なのだなあと、長女を抱きかかえながら思いました。先週の土日は風邪で伏せっていたから、今週の土日はしっかり楽しんで、身も心もリフレッシュできるように過ごそう。

 次女のほうは、平和に過ごした一日でしたが、ひとつだけちょっとした事件がありました。公園で砂遊びをしているとき、同じ公園内でゲートボールをしていたおじいさんの一人がこちらに挨拶してくださって、そのあとほんの冗談の感じで次女に向かって「砂を食べたらいかんよ」と言ったら、次女はそれを、叱られたと思ったらしく、「食べてないもん・・・食べてないもおおおおん」と、怯えきった顔で私にしがみついて、しゃくりあげながら大泣きしました。なんとも気まずい出来事でした。次女はもっと小さいころから、家族以外の人からほんのちょっとでも強めの口調で指摘されると、そのとたんものすごく怯えて、声も出せないくらいにしゃくりあげて泣くのです。失敗するのが大嫌いな子だから、他者から間違いを指摘されるのは、次女にとってこの上ない恐怖なのかもしれません。
 物怖じしない長女とは対照的に、次女は他者の存在をとても気にして怖がります。とくに、自分に何かを言ってくる人に対しては、警戒心を剥き出しにします。さほど酷いことをされたことがあるわけでもないだろうに、どうしてだろう。長女が幼稚園のころ、毎日幼稚園に送り迎えにいっていたときの経験が、悪い方に働いてしまっているのだろうか。たくさんの人と触れ合えて、次女にとってはいいことだと思っていたのに。長女の卒園式での人生初お預かりも、恐怖体験として記憶に刻み込まれてしまっているのかもしれません。
 つい先日も、今度幼稚園に遊びにいってみようねという話をしたら「次女ちゃんは何歳になっても幼稚園いかないもん」と言い出したので、どうしてそんなこと言うのかと聞くと「だって、人がいるんだもん」と声を潤ませ、ああ・・・それすごいわかるわー・・・としみじみ共感してしまった自分がいて、まずいなと思いました。相手に対して警戒心があるうちは一言も発しない次女ですが、ひとたび警戒心がとけて心を開くと、びっくりするぐらいはっちゃけて遊ぶ子なので、幼稚園でも、数日かよううちに、心を開いていくのではないかなと、あまり心配しないようにしています。これから何度か幼稚園に遊びにいったりして、心をほぐせたらと思います。もっと、優しい他人と触れ合えるような機会を作れたらいいのですが、しかし、優しい他人って、どこにいるのだろう。


by papiko-gokko | 2017-06-17 00:41 | Diary | Comments(0)

 近所の田んぼに水が張られて、そばを通ると時折カエルの合唱が聞こえるようになりました。朝、次女と公園へ行く途中、田んぼ中にサギがいて、クチバシでのんびり水面をついばんでいたので、次女に話しかけるともなく「今、サギはお食事中なんだね」とつぶやいたら、それを聞いた次女はサギの様子をじっと観察しながら「サギは、何を食べてるの? 田んぼのお空を食べてるの? 」と、質問をしてきました。今日はよく晴れていて風もなく、田んぼの水面に青空が映っていたので、お空を食べているのかなと思ったようです。3歳児の考えることって、すてきだなあ。空を食べる方法をはじめて知りました。
 最近の次女は、本格的に「どうして」の質問攻撃もはじまって、面倒なこともあるけれどおもしろいです。どうして空は青いの、どうして雲は白いの、どうして夜はお月様があっても暗いの、どうして水は湿っているの、どうして髪の毛は黒いの、どうして髪の毛はお顔のところにはないの、どうして子どもは小さいの、どうしてまつげはあるの・・・次女の口から飛び出す「どうして」を集めたら、ひとつの長い詩ができそうです。

 今日はプールがなかったからか、長女がわりと元気に帰ってきて安心しました。好きな上級生のお姉さんと一緒に帰れたのもよかったようです。毎日、楽しいことも辛いことも嬉しいことも悲しいことも、幼稚園のころとは比べものにならないくらい、たくさんたくさんあるのだろうな。元気に帰ってきて機嫌もよかったので、お勉強も最後までご機嫌にできて、お風呂に入るのも嫌がらなくて、心底ほっとしました。
 ただ、夜寝る前にケンカをしてしまいました。絵本の読み聞かせが終わったあと、いつものように部屋の明かりを消して長女の読書灯だけつけていたら、しばらくして長女が「今、本を読む気にもならないし寝る気にもならない」とぐずぐず言い始め、じゃあもう読み聞かせしようかと提案したら頷いて読んで欲しい児童書を差し出してきたので、長い本をがんばって読み聞かせしたのに、ふてくされた顔のままで、挿絵があるページで挿絵を見せてやっても、見ようとしなくて、なんだかものすごく、心を踏みにじられた感じがして、悔しいやら悲しいやらで、最後の最後で、「人をなんだと思ってんの!何様のつもりなの!」と強く怒ってしまいました。今思えば、いざ読み聞かせが始まってみたら聞きたい気分でもなかったのだろうな。だったら何ページも読み進める前に早い段階でそう言ってくれればよかったじゃないかとも思うけれど、次女も聞いていたから、それも言いにくかったのかもしれないな。昨日は、長女が寝る前に「本を読んだら元気が出た」と言っていたから、今日も、自分で読む気にならないなら読み聞かせでもしてやれば元気がでるかもしれないと、勝手に思って期待して読んで、勝手に裏切られた気持ちになった、ただそれだけのことです。
 これまでの経験や希望的観測から勝手に期待して勝手に裏切られる、最近、こんなことの繰り返しです。思い通りにならない、理想通りにいかない、そんなことばかりです。元気でいてくれさえいれば、それでいい、それ以上望むものなんてないはずなのに、勝手に何かを期待して勝手に裏切られ、勝手に心を乱されて、勝手に疲れています。めちゃくちゃ甘えてくるくせに、言うことはきかない、ここのところの長女はそんな感じで、振り回されています。もっと毅然としていなくては。

 昨日いつもより1時間半早く寝た次女が、今朝、律儀にいつもより1時間半早い5時に起きたので、今日も眠たいです。明日はなるべく眠たくないハツラツとした一日を過ごしたいです。眠ろう。


by papiko-gokko | 2017-06-15 22:54 | Diary | Comments(0)

みんな疲れ気味


 午前中、次女とふたりで電車に乗って、数駅先の大きな公園へ行きました。電車の時間があるのでそんなにゆっくりとは遊べませんでしたが、電車に乗ることも含めて、次女は楽しんでくれたようです。土日だと大きい子がいっぱいいてなかなか挑戦できないような、丸太の吊り橋や一本橋や鉄棒などにも今日は積極的に取り組み、やり遂げて嬉しそうにしていました。ここ数ヶ月で手足の長さ太さがしっかりしてきて、上ったりぶら下がったりがどんどん上手になってきています。本人も自信がついてきているらしく、途中で怖がって泣くことがほとんどなくなりました。
 さほど長い時間遊んだわけではないのに、私はとてもくたびれました。家に帰ってから、タウリン3000㎎の栄養ドリンクを一気飲みせずにはいられないぐらいの疲労感でした。駅から公園までの道のりが短いようでそれなりにあるし、まだそこまで気温は高くないとはいえ、日射しにあたるだけで疲れます。電車やバスでいつもの町から少し遠ざかるのは気晴らしになっていいけれど、これからもっと暑くなってくるから、遠出はしばらくお休みかな。

 午後、長女は今日もくたくたで帰ってきました。プールで疲れたようです。眠たそうな顔でグズグズ言いながらなんとか宿題をやって、入りたくないと泣きながらお風呂にはいりました。夜ご飯も、お腹が痛いと言ってあまり食べませんでした。心配です。次はプールお休みしたいとも言っていたので、長女にとって小学校のプール授業は、かなりハードなのでしょう。明日はプールがないようなので、ほっとしています。プール開きで楽しいことがひとつ増えるとばかり思っていたのに、これはどうやら、長女にとって初めての試練になりそうです。日射しの中を歩いて帰ってきたはずなのに、帰ってきた長女の手を握ったらひんやりしていたのも気になりました。今はまださほど気温が高くないから、水が寒くてあまり気持ちよくないのかもしれません。次のプールは、よほど体調が万全でないかぎり、無理させないことにしよう。歯磨きをするまでかなり眠そうにしていましたが、寝る前に布団の中で本を読んだら元気が出たようでした。肉体的だけでなく、精神的な疲れもかなりあるのでしょう。心を本に救ってもらって、睡眠で体もしっかり回復しますように。

 子どもたちふたりともそれぞれに疲れていたようで、今日はいつもより早く寝ました。次女にいたっては、1時間半も早い19時過ぎに寝てしまいました。私も夫も、なんだか体がだるいです。ここのところの、肌寒いような蒸し暑いようなよく分からない気温の変化についていけていないのだと思います。家族全員、今日は早く寝て、元気を出さなくては。


by papiko-gokko | 2017-06-14 22:26 | Diary | Comments(0)

 今日も長女は不機嫌ぎみで、お勉強タイムに一度大泣きしましたが、大好きな『キッチン戦隊クックルン』を見て、夫が帰ってきて優しくしたら機嫌が直りました。今日の夜ご飯も長女の大好きなものばかりにしたので、ニコニコ食べてくれました。夫だけでなく、これからは長女も、私の知らない外の世界で疲れて帰ってくるのだから、家で帰りを待っている私と次女はふたりで力を合わせて、家を心地よいものにしていかなくてはいけないのだなと、そんな長女を見ていて思いました。
 今日は学校ではじめてプールがあったので、さぞかし楽しんで帰ってくるだろうと思っていたのだけれど、聞いてみると、シャワーが怖かったとか、水の中を歩く競争でビリになったとか、口を尖らせて言っていました。昨日家で水着を着る練習をしたときも、幼稚園のころの長女だったら大はしゃぎしただろうに、「こんなのひとりで上手に着られないもん」と、ぶつぶつ言っていました。長女は口の回転以外の動きがのんびりしているので、体操服の着替えも時間ギリギリのようです。学校の体育やプールは幼稚園のような楽しい水遊びではなく、あくまでも授業の一環として、いろいろ難しいことに挑戦しなければならないので、周りの子はできるのに自分にはできないようなことも、いろいろと出てきて、戸惑っているのでしょう。人よりできないこともある、だけど人よりできることだってあるんだということを、学校生活の中で日々たくさん経験して、落ち込んだり自信を取り戻したりを繰り返しながら、自分らしさを身につけていってほしいです。
 プールをしていつも以上に体が疲れていたようで、今日の長女は寝る前の本読みタイムに本を読みながらうとうとして、最後はもう目が開かなくなり、本を長女の手から離して閉じてやったら、そのまま寝てしまいました。長女がこんな眠り方をするなんて、ものすごく珍しいことです。昨日今日と、ぐずぐずご機嫌ななめぎみの長女、生意気なことを言うので腹も立つし大変だけど、なんだか可愛いです。どうやら、熱が出て一日学校を休んだのがきっかけで、それまでピンと張っていた緊張の糸が切れて、入学式からずっと続いていた張り切りモードが終了したようです。今の長女は、楽しくないわけではなさそうだけれど、なんか学校って、勉強って、けっこう疲れるものなんだなぁ・・・難しいことも多いんだなぁ・・・と気づいて、ちょっとぐったりアンニュイになっている感じです。ここをなんとか乗り越えて、またハツラツとした長女になってくれるといいな。今日は一時期、長女につられて私までイライラして怒ってしまったので、明日は余裕をもって向き合えるようにしたいです。しかし、こちらが余裕をみせると、まだまだぐずって大丈夫だぞと思って調子にのり、ますますエスカレートして結局私の余裕がなくなるまで続くという問題もあるし、難しい。腫れ物に触るように優しくせずに、ぐずぐず悪い子でいるときには一発がっと強く叱って、うわーんと泣かして、大いに泣いて心がちょっとすっきりしたあとで優しくすれば、それでいいのかな。



by papiko-gokko | 2017-06-13 23:20 | Diary | Comments(0)

 長女が元気に小学校へ行き、ほっと一息つく間もなく、今日も次女と公園へ。川沿いにある公園へ行き、ひとしきり遊んだあと、川縁の道を散歩して帰りました。今日も浅瀬の飛び石でカメたちが甲羅干しをしていました。石の上にいたカメが川に飛び込むと、ぼちゃんと音がして、こちらまで涼しい気持ちになります。小さいカメは、私たちが通ると、その音か振動に反応してすぐ飛び込むのだけど、大きめのカメは、長年生きた経験で肝が据わっているのか、ちょっとやそっと人が通ったぐらいではびくともせず、めったに飛び込む姿を見せてくれません。でっかいカメが飛び込んだらボッチャーンといい音がするだろうなあ聞きたいなあと思いながら、いつも飛び込むのを待っているのだけれど、ぴくりとも動いてくれません。
 今日はでっかいカメのすぐそばの岩に鴨が止まっていて、でっかいカメと見つめ合っていました。どちらも落ち着き払った表情をしていて、あれはどう考えても、人間には分からない何かしらの方法で会話をしていたのだと思います。波のない穏やかな川、甲羅の乾ききらないカメと鴨、光を浴びて眩しい飛び石、茶色とグレイと深緑に満ちたその風景は、もうそのまま、アーノルド・ローベルの絵のようでした。今日見た景色をそのままアーノルド・ローベルに伝えて、物語にしてもらえたら、どんなにすてきだろう。

 公園の砂場では、『窓ぎわのトットちゃん』を読んでいました。左手のシャベルで砂を掘りながら読んだのでほんの3ページしか進まなかったけれど、トットちゃんが、長女の言いそうなことばかり言って面白いです。子どもの頃読んだときには分からなかった面白さに、読み進めるほどに出会えます。今週はずっと、この本をリュックサックに入れておこう。
 長女のおかげで児童文学を積極的に読むようになって、自分は大人の小説よりも、児童文学が好きというか、性に合っているのだなあと、はっきり気づきました。思えば大学時代も4年間文芸を学んで、結局いちばん面白かったのは、純文学でも大衆小説でも漫画でもジャーナリズムでも校正でもなく、児童文学と詩歌でした。もっと学生のうちに児童文学を深く学んだらよかったなあと、今になって思います。
 私は児童文学の文体、リズムが好きです。もちろん児童文学と言ってもさまざまですが、大人向けに書かれたものとは、一文字一文字の染み込みやすさみたいなものが違うのです。児童文学の文字は、乾いた地面にポツポツまっすぐ落ちてくる大粒の雨のように、心にくっきり勢いよく染み込んでくる感じがします。大人の小説の文字はくまなく濡らす霧雨のようで、傘をさそうかそのまま行こうか、まずそこから悩める自由があり、それはそれで楽しいのだけれど、大粒の雨に叩かれて大地の匂いがむわっと呼び覚まされるような、児童文学の力強さに強く惹かれます。

 長女が帰ってきてからは、長女がなんだかやたら不機嫌でイライラしていて、珍しく次女にまでイライラをぶつけたりして、大変でした。朝もあまり機嫌が良くなかったので、今日はどうも、そういうわけもなくムシャクシャする一日だったのでしょう。本人曰く、「千年に一度ぐらい、そういう日があって、ちょうどそれが今日なの。だから、もう当分はないと思うけど」とのことで、私が笑いながら「いやたぶんこれからもそれなりにあると思うよ」と言ったら、「お母さんにも子どものころ、暴れたくなる日があったの?」と真剣に聞いてきました。やけにムシャクシャして暴れたい日なんて、子どもの頃も今もいくらでもあるので、「そんなの、いっぱいあったよ、暴れたと思うよ。今度ばあばに聞いてみな」と言うと、「ふうーん」と、しばらく天井を見つめて、足をバタバタさせていました。次女が寝るまで、次女にちょっかいを出して布団を奪ったり、転げ回ったり、ふがふが暴れていましたが、次女が寝てからは幾分落ち着き、抱っこして赤ちゃんみたいになでなでして、なんでもない話をしているうちに、最後はクスクス笑いながら寝ました。風邪が治ったばかりでなんとなく気だるくて、まだいまいちエンジンがかからなくて、甘ったれたい気分だったのかな。明日はお腹の中のムシャクシャ虫がいなくなっていますように。 
 

by papiko-gokko | 2017-06-12 22:52 | Diary | Comments(0)