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日記と短歌


by papiko

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 二度寝三度寝を繰り返し、ようやく布団から這い出したのが十一時半。十時間ぐらい眠ったせいで、今日は一日じゅう頭が痛い。もったいない土曜日になってしまった。
 のろのろと着替え、もさもさ水分と栄養を補給し、だらだら部屋の掃除をして、食器を洗って、洗濯物を干したりたたんだりしたら、もう夕方。相変わらず、痛くて重い頭。もったいない。
 
 たくさん寝たから、たくさん夢をみた。恋人と、恋人の家族と、友達と、友達の赤ちゃんと、両親と、妹たちと、職場の人たちが、同じぐらいの比率ででてきて、そのなかにちらほら、会ったことのない人もいた。月に一度オフィスの電話を拭きに来るおばさんも、ちらりとでてきた。夢の私は、恋人と恋人の家族と一緒になぜか魚の養殖をし、友達の誕生日プレゼントを選び、担当の営業さんとなぜか筆談で盛り上がり、妹と押入れのなかでお絵かきをして遊び、両親の買い物に付き合い、友達の赤ちゃんが泣くのをなだめた。

 頭の痛い日は、くるりが心地よい。今日は一日、くるりだけを聴いている。

***

 文学全集からぐっときた文を抜き出そう月間。今日は坂口安吾全集より。名作を読みまくるぞ!と意気込んでいた大学一年のころ、有名どころの「白痴」と「堕落論」に挑戦した結果、難解!と感じて、そのまま離れてしまっていたこの人。今日全集のなかからいくつか読んでみたら、相当に素敵だ。かっこつけずに、読みたい雰囲気の作品から読み始めなくちゃだめだな。もったいない。

谷村は公園の歩道の隅の小さな噴水を思い出した。彼は山で見た滝の大きな自然が厭らしかった。河は高さから低さへ流れ、滝は上から下へ落ちる。自然のかかる当り前さが、彼はつねに厭だった。水は上へとび、夜は明るくならねばならぬ。人口のいつわりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実のために、その完全な組み立てのために、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世にはありえない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。』 (恋をしに行く)

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も、子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ。帰るということの中には、かならず、ふりかえる魔物がいる。』 (日本文化私観 三、家について)
by papiko-gokko | 2008-05-31 19:16 | Diary | Comments(0)

月末


 苛立ちは思いやりを踏みつけながら押し寄せてきて、私の思考をどこまでも傲慢にする。苛立ちをなんとか遠ざけようと、息を吸っては吐いて繰り返すうち、深呼吸とため息の区別がつかなってきて、息苦しい。私の考えることの、あちらこちらが間違いであり、単なるワガママにすぎないこと、わかっているのだけど。

 会社の人間関係でストレスを感じる原因は、彼らがこぞって、一歩離れてみれば普通にいい人である、ということだ。根っからの悪人でどうしようもなかったら、嫌いだ!と、潔く思って切り捨ててしまえるのだけど、心を乱されて嫌になる日もあれば、穏やかに向き合える日もあって、冷静に考えると、だれもが一生懸命に生きていて、悪人ではないのだもの。だから、彼らを本気で嫌いにはなれなくて、そんな彼らに対してイライラしてしまう自分自身のことを、うじうじと嫌いになっていく。

 今日は月末、集計と請求書作成の一日。一か月で最も忙しいこの日を、私は最近少し好きになっている。なぜなら、自分が昔にくらべてずっと仕事をできるようになっていることを、一番実感できる日だから。二年前は、月末がくるたびに、てんてこ舞いで目を回し、先輩に助けてもらってばかりいたものだ。けれども今は、どんな仕事も一通り、滞りなくひとりでできる。今日は、さぁ集計が終わったぞというところで値引き依頼がきて全部やり直しになってしまったけれど、ひるむことなくさっさと再集計をして、無事に売上を確定させることができた。えらい!担当の営業さんも、月末が近づくと金額に関するちょっとしたことを、相談してくれるようになったし。担当の営業さん、いつも難しい交渉をがんばっていて、カッコよくて素敵だから、もっと頼られるようになりたいな。

***

 文学全集月間。読んだなかから、ぐっときた文章を抜き出してみることにしました。
 今日も、横光利一「春は馬車に乗って」より。妻の薬をもらいに病院へ行き、死が近いことを医者に告げられた帰り道の描写。
彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。

 もうひとつ。横光利一「御身」より。
愛という曲者にとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかというと、われわれはその報酬を常に計算している。しかしそれを計算しなくてはいられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかという理由も解らずに、しかも計算せずにはいられない人間の不必要な奇妙な性質の中に、愛はがっしりと坐っている。帳場の番頭だ。そうではないか?
by papiko-gokko | 2008-05-30 23:26 | Diary | Comments(0)

 どんな感情も、同じまま長く保っていられずに、どんどん変化していく。色から色へと移り変わっていくカメレオンのように、ではなく、筆をすすぐ絵の具バケツの水みたいに、色と色が溶け合っては混ざり合い、どの色の気配も残したまま、混ざるほどに透明度を失いながら、暗い色へ暗い色へと、濁って濁って変わり続ける。
 私は一体、何処に何を描きたくて、誰に何を訴えたくて、浅はかな思いで絵の具を塗りつけ、塗りつけてからこの色じゃなかったと筆をバケツにつっこんでかき混ぜ、また適当に塗りつけてはつっこんでかき混ぜて、こんなにも心の中を濁し続けてしまうのだろう。この、混ざりすぎてわけのわからなくなってしまった、バケツのなかの灰色を、ぶっかけてやりたい。ちっともわかってくれない人と、すっかりわかった気になっている人に。なんて、私は、何様のつもりでしょうか。

 今日は、会社で癇癪を起こしかけた。朝一番に、好きじゃない営業さんから、いやな口の形で、いやなことを、指摘されたから。昨日一度の失敗で、あぁしまったなぁと思っていたことを、「別にいいんだけどさ」の前置きつきで言われたから、昨日の反省も後悔もなにもかも、ぐわぁっと逆流して、相手が全部言い終わるまえに「あーあのときあせってましたすいませんでした以後気をつけます」と、目を見て一息で言った。たぶん、半笑いで。癇癪起こしかけた、というより、軽く癇癪起こしているか、これは。好きより嫌いが充満していく。こんな自分は悲しくて、空しくて、こんな自分を生きたくはない。でもとりあえずは、明日もがんばることにする。
by papiko-gokko | 2008-05-29 21:18 | Diary | Comments(0)

野球観戦


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 恋人と、生まれて初めて、プロ野球ナイターの観戦をした。神宮球場で、ヤクルトVS日ハムの交流戦。ラッキーなことに日ハムの投手は、今を時めくダルビッシュ!ヤクルトファンの私たち(特に私)は、応援用のブルービニール傘を購入して、一塁側の内野席にて観戦した。
 ゲートをくぐればすぐ目の前に、いつもテレビで見ている球場があり、くっきりした芝生と土の色合いが美しく、選手たちのユニフォームも、ライトを浴びてまぶしく光っていた。中でも、やっぱり、ダルビッシュ!すらりと背が高く引き締まった体、小ぶりの顔、長い手足・・・生ダルビッシュのかっこよさときたら!ヤクルトファンとして参戦していながら、オペラグラスでダルビッシュの勇士にうっとりしてばかりいた。父と母に観戦の様子を携帯で撮って送ったら、母から「ダルちゃんの写真とって(はぁと)」と返信がきた。ダルちゃんとは。ヤクルトファンである父と祖父は、メールではなく電話をしてきた。神宮球場の雰囲気を味わいたかったらしい。さっき傘で踊ったよと父に伝えたら、「それでこそヤクルトファンだ」と、なぜか誇らしげに喜ばれた。祖父は点が取られていることをひたすらに悔しがっていた。
 いつもテレビでぼんやり見たり見なかったりするプロ野球が、目前で繰り広げられるって、不思議な感覚だった。この人たちも日々こうして、一生懸命に働いているんだなぁと、すぐそばで投球練習をしているピッチャーとキャッチャーを見ながら思った。テレビで活躍している人を肉眼でみると、彼らのしていることは絵空事の夢ではなくリアルな仕事なのだなぁと、にわかに気付かされる。テレビのようにきれいなところばかりを切り取らないから。人に見られる仕事って、どんな感じなのだろう。特にテレビで、いい部分だけを切り取られた自分を見られるのって、どんなものだろう。いろいろと大変なのだろうなぁ、やっぱり。
 ヤクルトの攻撃のときにはヤクルトファンが歌を歌い、日ハム攻撃のときには日ハムファンが歌を歌って応援する。傘を広げたり手を叩いたりしてヤクルトの応援をしながら、応援って楽しい!と思った。好きな球団のことを力いっぱい応援していると、なんだか、元気がみなぎってくる。選手がヒットを打ったりして、自分たちの応援が選手の耳にも届いているのだと思うと、ますます応援をがんばりたくなる。こういうのを、相乗効果というのかな。相手の応援がすごいと、こっちも負けていられない!とばかりに、応援に熱がこもった。こんなにまっすぐ、何かを応援したのは、久々だった。一点の曇りもなく、がんばれー!打て―!って、応援して、打ったら心の底から喜んで、打たれたら心の底からがっかりして、試合のあとは、心の底から、お疲れ様!と思った。
 結果的にヤクルトは負けたけれど、楽しかった。さぁ帰ろうかと席をたったら、ヒーローインタビューでダルビッシュが、「今日は奥さんが観に来ていたので、がんばりました」とはにかみながら言っており、それを速やかに「今日はぱぴこさんが観に来ていたので、がんばりました」と脳内変換し、ほのぼの球場を後にした。
by papiko-gokko | 2008-05-28 21:15 | Diary | Comments(2)

 昨日は言い知れぬ恐怖と悔恨にとらわれて頭の中が壊れそうだったのに、夢も見ないでどっぷり寝たら、今日の朝には一体何がなぜそんなに恐かったんだか悔しかったんだか、よくわからなくなっていた。私の脳みそ、相変わらず恐ろしいまでに単純。そして迷惑。

 会社を定時で飛び出して、今日は図書館に寄って帰った。美しい言葉が読みたい欲求が高まり、生半可なもんじゃ嫌だ特上の美しさでなくては嫌だ!と自転車をこぎながらひとりで盛り上がって、今日はいつも行くところとは別の、文学全集がたくさん置いてある図書館へ向かった。いつも行く家から一番近い図書館は、小説の蔵書センスが素敵で大好きなのだけど、ただひとつ残念なことに、文学全集をほとんど置いていないのだ。一応有名どころが文庫で揃えてあるにはあるのだが、せっかく借りるなら、文庫ではなく全集がいい。そんなわけで、今日はいつもと違う方向へ自転車を走らせる決心をしたのだった。
 図書館に入って一番奥の、背伸びしても届かないぐらい高いところにある棚が、文学全集の置いてある場所だ。古典文学に近代日本文学、それから海外文学、朱色や紺や深緑色をした太く上等そうな背表紙の本が、ずらりと並んでいる。見上げているだけで、空を見上げているときの開放感と似ているようでちょっと違う、むずむずするような喜びが沸き上がってきた。
 目当ての棚のすぐそばに、高いところの本をとるために用意されている三段ほどの梯子があり、パンプスにスカートで登るのはちょっと怖いなぁと戸惑いつつも、手に取るためには梯子を使うよりほかなかったから、がんばって一段ずつのぼった。のぼってしまえばもう、ちっとも怖くない。梯子から目の前の棚を見渡せば、低いところから見上げていたときには見えなかった背表紙の細かい模様がくっきりと見え、その中心には錚々たる文豪の名が金色の文字で印字されて、威風堂々と開かれるときを待っている。さてどれを手に取ろうかと、わざとらしく背表紙に指を這わせ、恐怖ではなく快感で、ひざの力が緩んだ。梯子をたった三段登れば届く自由が、今目の前に、こんなにもある!
 ときめきで梯子の上にいることも忘れ、棚から本をぼすぼす抜いたり入れたりして、高いところにいるからうすら笑いを浮かべていても大丈夫だろうと、思う存分ニヤニヤしながら選んだ。平日で人が少なく、文学全集のところには私しかいなくて、本当によかったと思う。高い棚には地震対策の鎖がかけてあって、取りだすのにちょっと苦労したけれど、確実に手にしようとしている自由の前では、その苦労すらもまた楽しい。恋人の下着の金具を外す思春期少年のごとく、不必要に慌てながら鎖をはずして本を手にした。
 四冊抱えて、無事に梯子から降りる。たった三段梯子をのぼっただけなのに、まるで、雲の上に顔をだして、こっそり天国をみてきたみたいな、そんな得意げなような秘密めいたような気分で梯子を元の位置に戻し、カウンターで数秒間ほど司書さんに渡して、ピッピッピッッピッと三週間、四冊私のものになった。がっつり、フルコース系だ。自転車のかごに入れてこぎ出してもなお、なんだかペダルが重かった。帰り道はいつもと違うところを通って、夕焼けの下り坂と川沿いの道が、気持ちよかった。 
 
 帰ってから、さっそくずっしり四冊テーブルに並べて、読み始めたところ。字が小さくてしかも二段組みだから、三週間で四冊読みきるのは無理だろうけれど、四冊ともまんべんなく、おもしろそうな話を読めるところまで読んでいくつもりでいる。
 今日はまず、横光利一全集。大学一年のころ、授業で紹介された「機械」を読んでみて、ふぅんと思って、これまでそれきり手を出さなかった人。この人の文体は美しいと噂に聞いて、読んでみることにした。そして見つけた美しい表現が、これ。

彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味かったか。――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。』(春は馬車に乗って)

 身体は一本のフラスコ!綺麗な表現。たった数ページ読んだだけでこんな文章にばったり出会えてしまうなんて、この人、期待できそう。さすが金色の文字で印字されるだけのことはある。
 私は本を読んだ感想を書くのが苦手(いい子ぶった説教臭い文章になって、せっかく読んだ本にまで興ざめしてしまう為)なのだけど、こうして美しい文章を抜き出すのは、余韻を楽しむ感じでとても好きだから、魅力的な文を見つけるたびにまた、ここに書き記してこうかなと思う。文学全集レベルの大作家なら、著作権も切れていて大丈夫のはずだし。それにこれは以前も書いたのだけど、自分の読んだ本の題名を紹介することは、自分にとって、穿いているパンツの柄を大声で発表するような感覚に似ていて、どうも恥ずかしくてできない(・・この感覚はあくまでも自分自身が紹介する場合であって、他人の感想は普通に楽しめる)のだけど、横光利一などの文豪ともなると、私パンツ水玉ですけど何か!?という感じで、きっぱり開き直れる。よーし、決まり。しばらく、文学全集週間だ。
by papiko-gokko | 2008-05-27 21:27 | Diary | Comments(2)

 生きていくのって、重労働なのだなぁと、自分や周りのいろいろで、実感する今日この頃。決まった曜日に決まったゴミを捨てて、食器や洋服を使って洗って片づけて、同じ時間に職場へでかけて、必ずしも愛しい人の為ではないことを、こなしていくということ。日々働き続けるって、それがどんな内容であれ、とにかくすごいことだ。おこづかいとは、わけが違う。だから、褒め合おう、もっとみんなで、褒め合おう。通勤電車で、コンビニで、横断歩道で、肩を叩いて褒め合おう。今日も一日がんばった、すごいね、すごいね、すごい、すごい。

 そんなことを言いながら、多くのことに対して、私の姿勢は不真面目だ。人に対しても、出来事に対しても、まっすぐ向かい合うことを避け、視線はいつも斜め下のほうを泳いでいる。どんなに真面目な気持ちでいるべきときも、心のどこかが不真面目。

 怖いことが、いくらでも起こり続ける世界で、毎日を生きている。いろんなニュースがとても怖い。わっと叫びだしそうなほど怖い。極端な日など、外にでると誰もが悪者に思えてきたり、今にも地震が起きる気がしたりして、逃げる方法ばかり考えながら先を急ぐ。
 
 会社では、ある営業さんのどうでもいい発言で、悔しい気持ちになった。悔しい、悔しい、叩きつけたい。悔しい、悔しい、悔しいでいっぱいになっていく自分の今日が、虚しい。心をこめて考えたいのは、こんなことじゃないのに、おかしいな。どうでもいいって、どうして思えないのだろう。ムカッときたときほど、動揺を隠そうとしてやたらへらへら笑ってしまうから、後からそんな自分の姿を思い出して、よけいに、何十倍も悔しくなる。ああ、悔しい、虚しい、悔しい。

 つまり、今日はこんな日記しか書けない具合で、なんだか思考のまとまらず、やたらと胸がざわざわしていた一日。何かを取り戻すように、スピッツを聴く。命が、ふっと、かろやかに、まろやかになる。

 卒論の評価で、お気に入りだったゼミの教授から、あなたは嘘つきだと、言葉に鈍感だと言われたこと。文章がうまく書けなくなるたびに思いだして、くらくらする。そうなのかな、やっぱり。そうなのかな。あの日、評価を終えて呆然と立ち尽くしていた江古田駅に、意識と五感がフィードバックして、三月の乾いた線路がみえる。あの線路、ぶわぶわとあらゆる音が耳元でやぶれ、何もかもを遠く感じるなかで、妙に近く見えた線路。

 明日は今日より上昇したい。
by papiko-gokko | 2008-05-26 23:15 | Diary | Comments(3)

 頭の痛い日曜日。何かを生み出さなくちゃと、長い間パソコンに向かっていたけれど、湧き出してくるのは浅はかな欲望と、その欲望に対する失望ばかりで、なにひとつ、新しい感覚をつかむことはできなかった。

 微笑みながら、あるいは怒りに震えながら、誰かが唱えるまともな意見に、脳みそが絞めつけられる。そんなまともなこと、これまでわからずに生きてきたとでも思っているのか。舐められている。誰もが誰かに見くびられている。私も誰かを、私も誰かに。謝れ!と、怒鳴りつけたい。ごめんなさい!と、泣きつきたい。

 やめたいことと、やりたいことのバランスが、うまくいっていない感じがする。終わっている?もう終わっているのか、私は。何がなのかよくわからないけど。終わっているなら楽ちんで、絶望的だ。もう終わっていることとまだ始まっていないことの区別がつかないうちは、何も終われず始められそうにもない。

 考えることが苦痛になった。寝ころんで、ふくらはぎと背中と二の腕をべったり冷たい床におしつけて、夏の気配に怖気づく体を冷ましながら、中原中也の詩集を、ぱさぱさ。

『なんにも書かなかったら
 みんな書いたことになった
 覚悟を定めてみれば、
 この世は平明なものだった』(「なんにも書かなかったら」の冒頭)

『僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
 あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
 僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
 僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
 僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
 僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
 恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れてゐる。
 そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。』(「いのちの声」の冒頭)

『ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。』(「いのちの声」の最後)
 
 なんて、うっとりするフレーズ。「雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる」など、震える表現。最後の一文もまた、うっとり。そうだ、そうなのだ、文句はないのだ。うっとりするフレーズを、自分の外側と内側から、探しまわって生きていく。うっとりするフレーズに出会うことが、それが他人のつくったものであれ、自分のつくったものであれ、好きです。

 大河ドラマ「篤姫」、今日も宮崎あおいさんの篤姫かわいかった!堺雅人さんの徳川家定も魅力的。あの瞳大好きだ。冷めきっているような怯えきっているような、温かいような冷たいような、あの瞳!いいなぁいいなぁ。頭が重たくなってしまうほどの豪華なかんざし、キラキラきれいだった。かんざしで、頭が重くなってみたいな。
by papiko-gokko | 2008-05-25 21:53 | Diary | Comments(0)

 じっとりとした空気に気が滅入り、今朝はなかなか起きられなかった。もたもたごろごろ布団に絡まりながら、気付けばすっかり覚醒した頭で仕事のことばかり考えていて、三十分ぐらいたってから、このままじゃ土曜が台無しだ!とようやく気付き、布団から這い出してパソコンの電源を入れ、すぐDVDを再生した。スピッツのライブDVD。最近、私のなかで過去最大級のスピッツ旋風が巻き起こっており、朝から晩まで暇さえあればスピッツを聴き続けているのだ。
 こわばった思考を解きほぐす歌声、心情に溶け込んでくる言葉、聴覚を潤すメロディ。なんて素晴らしいのだろう。スピッツは言葉や歌声だけじゃなく、楽器の響き方も好きだなぁ。草原に勢いよく倒れ込んで転げまわるようなドラム、水面を指で弾くようなギター、低空飛行のでっかい昆虫みたいなベース。詳しい技術はわからないけど、マサムネさんの声をここまで輝かせることができるのはこの人たちの演奏しかないのだろうなと思う。
 しばらくパジャマのまま体育座りで見入っていたら、だんだんと気力が沸いてきて、一時停止で服を着替えた。マサムネさんはかっこよくて可愛くてエロチックで、脱いだパジャマをのろのろとたたみながら、目は画面に釘づけだった。声、目鼻立ち、背格好、髪型、佇まい、どれもこれもが理想的な度合いの人!私の理想とする、優しいひねくれ者男子の代表格がマサムネさんだ。「君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ」(8823)とか、たまらないひねくれ恋愛観。
 スピッツの歌は叶わない思いの歌詞が多いから、難しいことを考えるまでもなくそのままの心で自分の片思い体験や悩みごとに重なって、この歌詞はまさに自分のことだ!と思いこんでしまえる。叶わない思いの現在過去未来、それがそっとごちゃまぜになっていく世界観。思い出のお風呂に浸かりながら、未来のしゃぼんを吹いては眺め、現在を打つ熱いシャワーのしぶきと湯けむりで、すべてがぼやけていくような、そんな感覚。
 ファンクラブの先行予約で九月のチケットをとったのだけど、まだ取れているかわからない。一昨年は抽選に漏れてしまって、行けなかったからなぁ。でも去年の二月にはファンクラブ限定のライブにいくことができて、あれは思い出すにつけ素晴らしかったから、ぜひぜひ今年も参加したい。当選したら、下の妹と一緒にいく予定。彼女もスピッツを好きなのだ。妹の彼氏がスピッツ好きで「田舎の生活」をカラオケにいくたび歌うらしく、それで好きになったらしい。一緒に生で聴きたいなぁ。できればロビンソン歌って欲しいなぁ。

***

 ひとりよがり、という言葉が、思考を気だるくしている。私が何をやるのも思うのも、ひとりよがりでしかなんじゃないかと思えて、力がでない。この日記は、私のひとりよがりの終着駅?日記なんて独りよがりで当たり前だとはいえ、公開して誰かが読んでくれるからには、ひとりよがりをほんの少し抜け出して書きたいんだけど、なかなかどうして、シロウトにはそんなこと、難しいのだな。
 そもそも、ひとりよがりって、ひとりよがりじゃないことって、なんだっけ。同じ志の仲間とか、共感し合える人がいれば、ひとりよがりじゃなくなるのか。ひとりよがりは、誰かにとって迷惑だろうか、誰かにとって痛みだろうか。あのひと痛々しいと笑われるだけなら、別にいいや。いやだけど、いいや。痛々しいもんは、痛々しいし。ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、まとまらない頭の中。たぶん私の確かめたいいろんなことは、生き終えてみないとわからないのかな。いや、むしろ、一晩眠ればもう確かめたかったということすら忘れてしまう程度のことだ。
by papiko-gokko | 2008-05-24 21:06 | Diary | Comments(0)

 人間ごっこ短歌751~760を追加しました。すべてこの日記にもアップしている歌だけど。最近どういうわけかよく、一人称に「ぼく」を選んでいるなぁ。「私」で詠むより素直に間近に想いを込められる気がして。「私」がいいときもあるのだけど、今は「ぼく」の時期。

 笛の短歌を詠みたくて、youtubeでコンドルは飛んで行くを探して聴いた。いいなぁ。やっぱりいいなぁ。ペルーに行ったことはないけど、山陰地方のあの深くなだらかな山々が浮かぶ。岡山-出雲の移動で山地を超える電車からいつも眺める、山と川と田畑の景色。「あっち向いても山、山、こっち向いても山、山」という子守唄を、子供のころ祖父が歌ってくれたけど、本当にそれぐらい、山山山、緑緑緑。まさに、「分け入っても分け入っても青い山(種田山頭火)」の世界。山が見える景色はいくらでもあるだろうけれど、あそこまでひたすらに延々と、もこもこぼうぼう山山山っていう景色は、なかなかないのではないだろうか。都会っ子の恋人などは初めて観た時、「縄文時代みたい・・・」と言っていたし。
 私はあの風景が、好きなのだろうか。好きか嫌いかなんて、地元にいたころは、考えたこともなかった。離れてみてはじめて、あの丸みを帯びた景色の愛しさ気づき、けれど好きか嫌いかと問われても、未だにうまくこたえられない。東京は好きかと問われれば、さっぱりにっこり、好きと言えるのに。

 それにしても、暑い。どうしよう。そういえば私は、夏が大の苦手なのだった。外の暑さも、冷え切った部屋も、どちらもすごく苦手で、体調がどんどん悪くなるんだった。特に東京の夏は暑すぎて、東京にきてからというもの、毎年夏バテして、オレンジジュースとアイスクリームしか欲しがらないからだになってしまう。汗のかけない体質が問題らしいのだが、どうすれば汗をかけるようになれるのかもわからないし。あぁ、暑い。気力が溶けていく。まだ五月なのに。あぁ、夏こわい。ただ、ビールが美味しいのが救い。
by papiko-gokko | 2008-05-23 23:18 | Diary | Comments(0)

 靴ひもを結び続けながら、落ち着きたい落ち着きたいと、だれている。飛び跳ねたい飛び跳ねたいと、じれている。頭の上で、メトロノームがスローテンポにカッコンカッコン揺れ続けて、何が昨日の出来事で、何が今日の出来事だったか、それすらも、おぼつかなくなる。そのうち、いつの間にか、別の人の靴ひも必死で結んでたりして。うつむいたまま見当違いの方向へ、同じ願いを抱いたままで。

 むわっと気温が上がったせいか、家に帰るなり居ても立っても居られないくらい切ない気持になって、気を抜くと、今にもひとりよがりのメールを送ってしまいそうで、どうしようどうしようと部屋を歩いてドアを開けたり閉めたりして、本を読んでも頭に入らず、短歌にもならなくて、音楽を聴いてようやく落ち着いた。
 スピッツの「ロビンソン」と、「夜を駆ける」。この二曲は、私の乱暴でべちゃべちゃで騒がしい切なさを、きめ細やかなクリーム状にしてくれる。どちらも、大好きな誰かとふたりだけでどこかへ駆けてゆくような歌。「ロビンソン」は勝手に恋した男の子たちへの、「夜を駆ける」は秘密を共有した女の子たちへの、それぞれ種類の違う、かけがえのない思いが溢れてくる。

 今日もそれぞれ新人さんに仕事を教えることになっていて、私も事務の先輩と相談したうえで引き継ぐことになっていた仕事のひとつを教えていたら、途中でいきなり上司に、「それは教えなくていいよ。ぱぴこさんがやって」と打ち切られ、打ちひしがれたのだった。一生懸命、しゃべり方を考えながら眠って目覚めて自転車をこいで電車に乗ってやってきたのにのにのに。日常は、やり場のない気持ちを大量生産しながら、どんどん過ぎていきます。気持ちのやり場がなくたって、やるしかないことだらけです。明日は金曜日だしがんばろう。なやむけどくじけない。これは恋人の座右の銘。
by papiko-gokko | 2008-05-22 22:12 | Diary | Comments(0)