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日記と短歌


by papiko

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 私が生まれて初めて自分で買ったCDは、小学五年生ぐらいのころに買った中島みゆき「旅人のうた」なのだが、カセットの時代までさかのぼると、幼稚園のころに「魔女の宅急便」の曲目的でユーミンのシングル集みたいなカセットを買ってもらったのが、自分の意志で手に入れた人生初の音楽になる。
 そのカセットに入っていた曲のなかで、幼稚園児の私が最も心惹かれてすぐ覚え口ずさむようになったのが、「翳りゆく部屋」という曲。幼いころに聴いた曲は、言葉の意味を理解できないぶん、自分なりの分かりやすいイメージに置き換えて曲の内容を吸収していて、そうして覚えた曲は大人になった今意味をある程度理解しながら聴いても、そのときに描いたイメージが不思議なくらいそのままの形で浮かんでくる。「翳りゆく部屋」のイメージは、そうして覚えた数ある曲のなかでも、群を抜いて立体感と色彩に富んだイメージを持っているのだ。
 何の翳りもなく愉快な毎日を送っていた当時の私が、かなり重たい内容のこの曲を好きになった理由は、メロディーの美しさ(特にイントロのオルガンが子供心にすごく印象的だった)と、それから、身近な言葉の鮮烈な組み合わせにあると思う。
 窓辺に置いた椅子、あなたが見ている夕日、その横顔、ドアの隙間からのぞく暗闇・・・ドラマチックで視覚的な言葉がちりばめられ、幼稚園児の私の脳内には、木枠嵌め殺しの窓辺に置かれた大きな揺り椅子に、白いシャツを着た病弱そうな青年(私が今死んでもという歌詞からの連想?)が、夕陽を眺めている姿が浮かんだ。あなたが行ってしまって、ランプを灯し、冷たい壁まで長く伸びる自分の影。茶色と橙色を基調とした古い異国の油絵みたいな、その寂しいイメージは、私の子供心を酔わせた。
 サビの言葉も、分かりやすくて且つ強烈な言葉の組み合わせばかり。「輝きは戻らない、私が今死んでも」というフレーズは恐らく、私が生まれて初めて口ずさんだ、バラードの歌詞だと思う(男性歌手だと、サザン「いとしのエリー」が最初で、サザンとユーミンどちらのほうが先かは覚えていない)。生きれば生きるほど、戻らない輝きに気づく瞬間は、いくらでも増えて。どんなに手紙を書いても、握手をしても、乾杯しても、見つめて泣いても笑っても、戻らないのだ。死んでも、戻らない。その事実を歌いあげられたときに迫りくる、静まり返った絶望感ときたら。幼稚園児の私にはそんな感覚絶対わからなかったはずなのに、幼稚園児の私が抱いたイメージはちゃんと、静まり返った絶望感を思わせる。ユーミン、恐るべし。

 帰り道、よく晴れた今日を傾けていく夕陽のオレンジが寂しげで、なんだか「翳りゆく部屋」を聴きたくなって、今ひさびさに聴いている。youtubeで検索してみたら、エレファントカシマシと椎名林檎のバージョンもあって、始めて聴いて感動。なにしろ、どちらも大好きな歌い手さんだから。
 同じ歌を歌っていても、歌い手が違うと全然違う。ユーミンの翳りゆく部屋は、今現在その場所にいながら、静かに諦めの悲しみに沈んでいく感じであるのに対し、エレファントカシマシの翳りゆく部屋は、過ぎ去った過去の別れに思いを馳せて、愁い嘆きながら歌っている感じ。それから椎名林檎の「翳りゆく部屋」は、今にも起こりそうなその別れに対する、悲痛な叫びのような、なんとか戻らない輝きの完全に消えてしまう前に、呼び止めようと全身でもがいているような、どこか怒りも含むような感じ。どれも、味わいがあって素敵。
by papiko-gokko | 2008-04-30 21:37 | Diary | Comments(0)

 晴れた祝日。母の日のプレゼントを求めて、池袋へ。池袋はうちから行きやすいし、あらゆるお店がざっくばらんに並んでいて何度歩いても飽きないので、事あるごとに出向いている。
 去年は買うものが決まらず歩きまわってクタクタになったのだが、今年は最初からお風呂用品にすると決めており、池袋にLushという石鹸の専門店があると恋人に聞いて場所を調べておいたので、とてもスムーズに目的地を目指せた。それに、歩いているうちにどこからか石鹸のいい香りが漂ってきたおかげで、地図の読めない私でも、今回は迷わず辿りつくことができたのだった。
 店内には、色も形もユニークでお菓子みたいな石鹸がたくさん置いてあって、面白くて夢中でくんくん匂っているうちにくらくらしてきてしまい、結局、母の日限定の詰め合わせを買うことにした。お風呂いに入れたら泡風呂になるハチミツ成分のボールと、甘い香りのシュワシュワ溶ける入浴剤と、つるつるになる天然成分で作られているという石鹸と、アーモンド油成分のハンドクリームが入っている。これらの私にとって未知の者たちが、母の心身を癒してくれますように。
 
 母の日のプレゼントを買ったあとは、デパ地下で実家へのお土産選び。連休また実家に帰るのだ。当たり前だが家族というのは年齢層がバラバラなので、全員に心から気に入ってもらえるようなのを選ぶのは難しい。ぐるぐる歩き回った結果、パッケージに東京なんとかと分かりやすく書かれている無難なものを選んだ。妹たちには透明の球体カプセルにカラフルな飴のたっぷり詰め込んであるお菓子もおまけする。そんなもので喜ぶ年ではなくなったけど、そんなものをつい買ってしまう姉の浅はかな愛に、呆れつつも微笑み返してくれるほど大人にもなったのだ、彼女らは。だから、いつまでも甘えて買ってしまう。かわいいものを、かわいい人に、あげたいのです。いつまでも。

 お土産を買い終わってほっとしたら、おなかがすいていることに気づき、西武百貨店の屋上にある、うどんやさんに行ってみた。前々から安くて美味しくて有名だと話には聞いていて、何度か食べた恋人も絶賛していたから、一度食べてみたかったのだ。
 屋上は広々としていて、野外テーブルがたくさん設置されており、そこで様々な人たちが、ワイワイガヤガヤ食事をしたりくつろいだり、五月の光を浴びながら自由に過ごしている。建物から向かって正面に、年期の入った屋台風の小さなお店が三つ並んでいて、そのひとつがうどんやさんだ。お昼時の時間は少し過ぎていたにも関わらず、うどんやさんには、それなりの行列ができていた。やっぱり人気があるらしい。しかし店内で食べるわけではないから並んでしまえばどんどん進み、あっという間に自分の番がきた。恋人から、おろしうどんと釜揚げうどんがおいしいと聞いていたのを思い出し、おろしうどんを注文。狭い厨房のなかでは、おじさんとおばさんが汗びっしょりで働いていて、自分が大学のころバイトしていたお蕎麦やさん思い出した。あのお店も、今頃忙しい時期に入っているのだろうなぁと、ゆっくり想いを馳せる間もなくおろしうどん完成。早い。
 日陰のテーブルは全部うまっていたため、日向のテーブルに腰を下ろし、さっそく食べてみる。一口食べて、思わず顔をあげてしまった。美味しい。私は味の違いとかあまりわからないほうだけれども、そんなわからない私が食べても、うどんの価値観が変わりそうなほど、ものすごくとんでもなく美味しかった。だって、いつもなんとか麺と具を食べきって満腹になる私が、驚くべき速さで全部平らげて、汁まで綺麗に飲み干したのだ。うちにある麺つゆじゃ絶対出せない味。一体どうやってダシをとっているのだろう。あげ玉も香ばしくて最高だった。

 生まれて初めて汁まで飲みほして、立ち上がったら一気に満腹感が、うっぷと押し寄せてきた。お腹がいっぱいになっているのも気づかないほどの美味しさだったとは。すごい。並んでよかった。お腹を休めるために、日陰を探して花壇に腰かけ、満腹すぎてちょっと苦しい気分で、空を見上げる。サンシャインビルといくつかの高いビルが顔をのぞかせているほかは、のどかな青空がどこまでも続いていて、なんだなんだ、池袋の空はこんなに広いんじゃないか、と、半分心から真剣に、半分予定調和的に、驚いた。テーブルのない広場では、子供たちが駆け回っていた。ここがあのガチャゴチャした池袋のど真ん中だなんてすっかり忘れかけるほど、広々としてのどかで、誰もがのびのびとくつろいでいた。東京には空き地がないけれど、大きな建物がたくさんあるぶん、屋上が広々としているんだな。ちょっと高いところへ登りさえすれば、東京の空は十分ひろい。そしてちゃんと隅々まで青い。それを知っているだけで、東京に対する印象が、ぐっと豊かになる気がした。
by papiko-gokko | 2008-04-29 22:23 | Diary | Comments(4)

 あまりにも可愛いものや、あまりにもカッコいいものを目撃すると、涙がでそうになるのはどうしてだろう。本当であってほしいことが、想像以上に本当だと、立ちくらんで息苦しくなるのはどうしてだろう。どうしてだろう。もう二十五年付き合ってきたのに、自分の心と体の連動のしくみが、私には未ださっぱりわからない。

 明日は祝日でお休みだから、母の日の贈り物を買いに行こうと思う。母は若いころ保育士をしていた経験を生かし去年からパートで保育園に務めており、今年は期せずして担任をもったらしく(二歳児のクラスで可愛くて仕方ないらしい、羨ましい!)、仕事は楽しくて好きだけどやはり体がしんどくてくたくただというようなことを電話するたび言っているから、今年は、お風呂でまったりできるようなものを送ろうと決めている。いいにおいの石鹸とか、美しい色の入浴剤とか、なにか湯船に浮かべるアロマみたいのもいいな。かく言う自分はあまりお風呂でまったりしない人間なので、うまく見つけられるか不安だ。
by papiko-gokko | 2008-04-28 22:42 | Diary | Comments(2)

 今日は一日家にいて、のんびり漫画やら本やら読んで過ごす。恋人がお鍋いっぱいにキャベツのスープを作り、その日曜日っぽい量と味わいに満たされた。
 昨日は友達夫婦が夜ごはんに誘ってくれたので、恋人と一緒におよばれした。友達夫婦の家はふかふかで座り心地がよいし、でてくる食器がみんな可愛いし、そんななかでゆったり気張らない会話ができて、いつも楽しい。それに、会うたびどんどん成長していく赤ちゃんに、毎回感動してしまう。笑うようになって、首が座って、座れるようになって、昨日はテーブルに手をかけて立とうと奮闘していた。次会うときにはハイハイもできるようになっているのかな。

 NHKの大河ドラマ「篤姫」が面白い。今日初めてまともに観てみたら、宮崎あおいさんの可愛らしさはもちろんのこと、他の俳優陣も素敵だった。特に堺雅人さんが出ているのが嬉しい。この人の雰囲気と演技、好きだなぁ。ただ顔が好きなだけの芸能人は三か月ぐらいで飽きるけど、顔が好きでしかも演技の上手な役者さんは、観るたびに新しい表情を見せてくれるから、いつまでも好きでいられる。
 何より目を惹かれたのは、宮崎あおい演じる篤姫様が着ていた着物の美しさ。襟元の鮮やかな色合いや着物いっぱいに散りばめられた繊細かつ贅沢な模様、普段の生活ではなかなか目にすることのないその美しさに、幾度となく身を乗り出しては溜息ついてしまった。あんな着物を、一度でいいから、着てみたいなぁ。結婚式はやはり、和で決まりだ。和となればもう、出雲大社に決定だ。
 歴史は名前を覚えられなくて苦手だけど、好きな人がたくさん出ているし、篤姫様の着物を毎週楽しみたいので、これから毎週観ようと思う。
by papiko-gokko | 2008-04-27 23:54 | Diary | Comments(0)

 ゴールデンウィークが近づき、なんとなくみんな、機嫌がよくなってきている。月曜から水曜あたりまでは、私を含め、誰もが気だるそうで、どことなく不機嫌なオーラを放っているのだ。機械じゃないので、いつも健やかな心ではいられないし、平日よりは休日が好き。それはみんな一緒なんだな。
 誰にでも不機嫌な日や気持ちの乗らない日があるのだということを、会社は学校以上にくっきり浮かび上がらせる。同じ教室にいながらみんながそれぞれ別の目標を持って自分のために勉強する学校と違い、会社では、利益というひとつの目標のために、様々な部署に分かれ連携を取り合いながら仕事をしているので、どこかの部署の誰かが不機嫌だと、ファックスの渡し方や電話の出方ひとつで、人から人へ、部署から部署へ、本社から営業所へと、どんどんその不機嫌が伝染していく。しかも会社は学校に比べて、個人的な感情を受け入れてくれる存在もぶつける機会も逃がす場所もずっと少ないないため、溜まる一方の不機嫌はオーラとなってその人全体を囲うのだ。だから自然と、人の発するオーラに対して敏感になる。朝一番にすることは、みんなの機嫌を感じ取ること、といってもいいぐらい。
 入社したばかりのころは、自分を大きな機械の小さな小さな部品みたいだなぁと思っていたけれど、最近は、魚の鱗みたいだなぁと思う。意思を持った鱗で泳ぐ魚は、大変だろうな。目の役目の人とか、疲れきるだろうな。鱗は鱗で、行きたくもない方向へ泳がされて、ふりまわされて、大変だし。「労働は美徳だ」と、今日読んだ小説に出てきた人が言っていた。自分が美しい魚の鱗なのかどうか、せめてそれさえ自分でわかることができれば、私も、労働は美徳だ、と、思えそうなのだけど。

***

 今日は金曜日だったから、会社から帰ったあと恋人と一緒に図書館へ。近くの図書館が平日八時まであいてくれていて、本当に嬉しい。今回は文庫本ばかり借りた。美しい文体をたくさん読みたいな。内容よりも、文体重視だ。どんなに魅かれる内容でも、ぱっと本を開いて瞳に吸いついてこなかったら、その本はアウト。今日はアウトも多かったけれど、ヒットも結構あったから、これから読むのが楽しみ。読んだ後、その文体に酔いながら自分の言葉を綴るのが、もっと楽しみ。言葉を綴らなくては後悔するしくみの人生を、自分で作り込んでいる。
by papiko-gokko | 2008-04-25 22:25 | Diary | Comments(0)

 家から最寄の駅までの移動手段に、最近自転車をつかうようになった。寒い時期は風の冷たさにくじけて、二十分ほどかかる道のりを歩いていたのだけど、ようやく暖かくなったから。
 家から駅へ、駅から家へ、ぐんぐんびゅんびゅん、自転車をこぐ。こげばこぐほど、するすると景色が流れ、心地よい風が体中をすべり、髪の毛や洋服がはためいて、私は東京の空の下、躍動する生き物になれる。一日のうちで、最も活発な時間。

 先日買った新しいワンピースで会社へいったら、朝コートを脱いですぐに同僚の子が、「ワンピースひらひらして可愛い!」と言ってくれた。その一言で、私はファックスの送り先を間違えかけるほど嬉しくなって、これから始まる一日の気配が明るくなった。我ながら、どうしようもなく単純だ。今日はワンピースを脱ぐまでずっと、その洋服を着ているというだけで、自分を生きることが楽しかった。洋服を一言褒められただけで一日が華やぐなんて、女に生まれてよかったなぁと、珍しく思う。思春期のころはよく、男の子に生まれたかったなぁと思ったものだけど、そういえば最近はあまり思わなくなった。女が楽しくなるのは、これからなのかな。

 担当の営業さんから仕事の指示を受けているとき、途中でひゅっと目を逸らされて初めて、自分が営業さんの目をものすごく見つめながら話を聴いていたことに気づいた。驚きだ。つい最近まで人の目を見て話すのが苦手で困っていたのに、特に男の人の目を見るのは難しかったのに、私は一体いつの間に、相手が目をそらすほどにまっすぐ見つめて話せるようになったのだろう。しかもただ見るのではなく、どうやらかなり見入っているっぽい。人に話しかけられるたび、これまできちんと見つめられなかった時間を取り返すみたいに、大きくない目を見開いて、乾くほど眼球に力を込めながら、相手を見つめている自分がいる。話し終わった後、ちょっと目が疲れているぐらい。
 これはどうしたことだろう。目を合わすことへの抵抗感よりも、相手の表情を見たいという欲求のほうが、大きくなっているみたいだ。自意識過剰が、少しは弱まってきたのかな。相手の本心を知りたいという懐疑心が、強まったのかな。なんにしても、失礼になるほど見つめすぎないよう、気をつけよう。私は何でも極端すぎていけない。
by papiko-gokko | 2008-04-23 22:53 | Diary | Comments(0)

 世界を大きく捉えるのと、小さく捉えるのと、どちらが優しい視線を保ちやすいだろう。優しくいられないときは、どんな範囲の視界も、尖ってしまうか。
 結局のところ、私は私らしくさえいられれば、たぶんそれで満足なのだろうけど、こんなしらけた心では、何処にいたって何をしたって場違いだ。楽しくなんてなれない。

 昨日自分の書いてしまったことが悲しい。悪意と圧力に満ちている、なんて、それは私が一番思いたくないことだし、これまで私は、数えきれない善意に救われて、ここまで生きてこられたのに。この前図書館で自転車の鍵を落としたときには誰かがカウンターに届けてくれていたし、ちょっと前にスーパーで携帯電話を落っことしたときにも誰かが拾ってくれてお店の人が保管していてくれたし、そのまたちょっと前に定期券を落としたときだって、すぐ後ろを歩いていた人が気づいて拾ってくれたし。落し物ひとつとっても(落し物しすぎという事実はともかくとして)、見ず知らずの人の善意に、私の毎日がどれだけ支えられていることか。たまに悪意に引っかかることがあっても、そんなときでも、必ず救ってくれる人がいる。それなのに。些細なことで恐怖心や猜疑心を掻き立てられ、手当たりしだい敵視することでしか自分の心を守れない、そういう自分が情けない。これは一種の裏切りなのかもしれない。優しい人を、愛する手段で、裏切るなんて。とても悲しい。
by papiko-gokko | 2008-04-22 21:34 | Diary | Comments(2)

 家の中では、薄暗い臆病な眼で、玄関から一歩外にでたら、落着きのない攻撃的な眼で、外の世界と向き合っている。いくつになっても、外の世界は脅威。外の世界で何より必要とされる能力は、善意と悪意を見分ける力だ。くれぐれも、人の悪意に触れてはいけない。この世に、人の悪意ほど底なしに恐ろしいものは、ないのではないかとさえ思う。悪意が善意へと変化することはまずないが、善意は些細なことで簡単に悪意へと翻るから、油断は禁物。力を抜いて甘えていいのは家族、同じ家を共有しているものだけだ。さらさら美しくながれる善意の小川のその両岸が、悪意と圧力に満ちているのだとしたら、どうしよう。力のある者たちが、偽善の橋を次々かけて、私たちはその橋から橋へ、あっちだこっちだと、逃げ惑ってばかりいるのだとしたら。

 月曜日から一時間ほどひとりカラオケ。心の有害物質を抜くには、歌うのが一番いいのだ。最近、ひとりカラオケにいきすぎている気がするけれど、これで心の健康が保たれるのならば、一時間五百円なんて、安いもんだ。歌うって、どこまでも気持ちがいい。昨日聴いていた影響で、スラムダンクの主題歌とか歌ってしまった。アニメが流れて、かっこよかった。漫画を集めたいなぁ。
 会社では、私ばかりがうまくやれてないような気がして、どんどん物事の捉え方がひねくれてしまって、「そんなことないよ」と、誰かに言ってもらいたいけれど、「私ばっかりうまくやれてないことないですかね?」なんて、質問できるほど仲の良い人もいない。考えてみれば、こんなに仲の良い人がいない場所に毎日通うのって、人生で初めてだ。先生の悪口を面白おかしく言い合って笑いに変えていた学生時代みたいに、たまには悪口のひとつも言い合いたいよ。清く正しく美しく、なんて、人間同士で生きている限り、所詮無理なんだから。社内にたったひとりでいいから、心を許せる人が欲しい。会社に関する苛立ちや戸惑いを、共有できる人が欲しい。そうすれば会社という場所が、ぐんと温度や立体感を増すと思うのにな。ひとりで行動するのは全然平気だけど、ひとりで想い続けるのは、苦手なのだ。お金を稼ぐために行く場所だ、とは、やっぱり割り切れないときもある。うん、わがまま。これはわがままだ。とてもわがままだ。じゃあ一体、あの会社で本当は誰が、わがままじゃないんだろう。
by papiko-gokko | 2008-04-21 21:20 | Diary | Comments(0)

 日曜日。具体的なことを何一つとしてする気になれず、youtubeをぼんやりさまよっているうちに、何のきっかけからだったかいつの間にやら、懐かしいアニメのオープニングやエンディングばかり検索して聴いていた。例えば「らんま1/2」、「ドラゴンボール」、「セーラームーン」、「スラムダンク」、「魔法陣グルグル」、「ママレード・ボーイ」、「赤ずきんチャチャ」、どれも子供のころ夢中で見ていたアニメばかり。
 アニメのオープニングやエンディングは、大体曲のイメージに合わせて登場人物が次々に現れるから、そのアニメをよく知っていればいるほどなんだか昔からの親しい友人に再会したような気分で、愛しさと懐かしさで、胸が熱くなる。かつて日常のなかにあった曲と映像から、当時抱いていた憧れや疑問がそのままのいびつさで流れ出してきて、勢いで校庭の外へ転がってしまったドッヂボールみたいに私の現在地まで流れ着き、それをいちいち手に取って眺めながら、あぁ私は遠いところまできたんだなぁ、と、しみじみ思った。あのころ夢中でこれらのアニメを映していたテレビはもう家にないし、私はもう成人して五年もたつ大人だ。セーラームーンごっこに夢中だった妹たちも、現実世界でセーラー服をとっくの昔に卒業している。しばらく忘れて暮らしているうちに、随分時間がたっていた。なにか寂しい。誰も遊ばなくなった公園に立っている気分。だれもいなくなってはいないけど、あのころのみんなもあのころの私も、もういない。
 遠くへ来てしまったのだなぁと寂しくなりながら、しかし同時に安心もする。毎日会社に行って帰ってを繰り返す日々は果てがないように感じて、なんだか自分がもうずっとずっと長いこと大人だったような気持ちになってきて、その感覚は私を気だるくしんどくするから、こうしてたまに子供のころに夢中だったものに触れると、自分にも確かに子供時代があったのだなぁと、思いだして安心するのだ。さかのぼれば絶対に、私は昔子供だった。いきなり投げ出されてここにいるのではなくて、育てられ、成長し、考え、選び、思い、歩いた結果ここにいる。土台がある。だから何も現在地を、恐れることはないんだ。
 いいアニメがたくさん放送されているときに子供時代を過ごせて、幸せだったなぁ。今はどんなアニメをしているのだろう。最近は全然テレビアニメを見ていないからわからないのだけど、自分の子供が夢中で楽しめるようなアニメが作られているといいな。そのアニメを、私も子供と一緒に楽しめたら、毎日が愉快だろうな。

 それにしても、またぼんやり過ごしてしまった。くらくらする。明日は月曜日なんだということ、それが当然だということに、くらくらする。明日からまた五日間がんばろう。そう素直に思えるときと思えないときの、激しい温度差にくらくらする。
by papiko-gokko | 2008-04-20 21:51 | Diary | Comments(0)

 一ヶ月後に迫るB’zのライブが楽しみすぎて、稲葉さんの絵を描く。今までで、一番好きな感じにかけた気がする!今までのが下手すぎるというのもあるけれど。恥ずかしい過去を踏み台にして、なんでも上達してゆけ私。稲葉さんはどんなに時間をかけて描こうともその不滅素敵フェイスを見飽きるということなど決してないので、とても素晴らしい。ライブが、楽しみだなぁ。

 絵を描く以外は、ぼんやり掃除をしたり洗い物をしたり洗濯を干したり、何を感じるでもなく考えるでもなく過ごしてしまった。せめて今から本を読もう。以前は、自分のもじゃもじゃ考えたことについての答えを求めて本を読んでいたけれど、最近は、自分がもじゃもじゃと考えるべきことを探すために、本を読んでいる気がする。自分の今いる場所では、ものを深く考えなくても、生きていけてしまうから。誰に本気の意見感想を求められるでもなく、必要とされない自意識は、無理に活性化させないほうが楽に生きていけるから、ついつい、ぼんやり多くを通過させる癖がついてしまう。そんなこと、私は嫌なのだ。私が私を意識しない限り、誰も私の意識を拾い集めちゃくれないのだから、ぼんやりしている場合じゃないのだ。私が私の中心からはがれないために、痛いときは痛いと、嬉しいとき嬉しいと、くっきり思える瞬発力を失わないたいために、本を読もう。しがみつく。
by papiko-gokko | 2008-04-19 22:30 | Diary | Comments(2)