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日記と短歌


by papiko

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 冬が来たことを実感すると同時に、祖母のことを思い出す時間が、極端に増えた。一年中、自分の命を認識することなくただ呼吸を繰り返すことでその生命を繋ぎ続けた祖母の世界は、一体どんなものなのだろう。当たり前だけど、想像がつかない。身近な人が想像のつかない状態になることが、これほど心を乱すとは。
 想像のつかないことは、どんなことでも想像しようとすればするほど、強烈な光か闇のどちらかに吸収されていく。光も闇も、一切の輪郭を奪ったきり受けつけない。手を伸ばせば、その指先までも吸われ輪郭を失って、恐怖が体じゅうを走る。神様か宇宙に目隠しされているみたいだ。光や闇に飲まれてしまう種類のものに関しては、考えちゃダメなのだ。輪郭がないものを考えるだなんて、混乱しか生まない。

 お餅の美味しい季節になって、お店には様々なお餅関係の食材が並び始めた。これからお正月も近づいてきて、いよいよお餅シーズンになる。お店でお餅を見かけるたび、笑っちゃう。こんな間抜けで鈍臭い形状のものに息の根を止められたのかと思うと、ぞっとしすぎて、神経がゆるむ。あの日も、お餅をのどに詰まらせるなんておばあちゃんらしすぎるねと、みんな赤い眼をして、ほそぼそ笑いあった。いつも何か気が急いているような人だったから。それにしたってこればっかりは、ひねりを効かせて欲しかったな。
 私は祖母が意識を失くした日以来、お餅を食べられなくなった。たぶん、祖父や妹もそうなのだろうと思う。そうでなければいいと願うけど、離れて暮らす私でさえこうなのだから、食べるのは難しいと思う。栗をイガイガごと食べるイメージよりも恐怖を感じるようになったし、食べたら祖母に悪い気もするし、お餅が美味しく食べられていたころのことを思い出して、うまく飲み込めそうにないから。

 子供のころ、毎年大みそかには、祖母と母と妹たちと台所でわいわいお餅を丸めた。お餅をつくる機械で、祖母がまず大きな鏡モチ用のお餅をつくり、二回目に私たちが食べるお餅をつくる。鏡モチ用のお餅は、祖母がまるめた。関節が太く皮膚が硬くどんな熱いものでも持てるその手によって形を整えられていく鏡モチは、一般的なものよりも、一回りぐらいでかかったように思う。二回目のお餅は、台所に特別に持ってきた大きなちゃぶ台にサランラップをひいて、そこに小麦粉をまぶして、みんなで丸めた。祖母が適当な大きさにちぎってくれた出来たてほやほやのお餅を、私と妹たちは、小麦粉だらけになりながら大騒ぎでどんどん丸め、アホな形をつくって遊んでは叱られ、笑ったり怒ったり繰り返しながら、たくさんのお餅をつくった。
 そうしてお餅を丸めることに飽きてきたころ、タイミングを見計らったように母がきな粉を用意していて、私と妹たちは台所から居間に引き上げ、祖父に食べ方を教わりながら、ふはふはと食べた。祖父も食べた。調子にのっておかわりを催促すると、「年越し蕎麦が食べられんくなるよ」と母が言い、「今晩は御馳走だけんね」と、祖母が言った。今晩は御馳走だけんね、という言葉は、私と妹たちの心を幸せにして、ますますはしゃがせた。
 元旦には朝から、大みそかに丸めたお餅たっぷりのをお雑煮を食べた。子供はひとつ、大人はふたつかみっつ入っていて、私も妹もひとつを食べきるだけで十分におなかがいっぱいになったのだが、だけどひとつを食べ終わると、祖母が必ず、「まだあーけん食べーだわね」と、おかわりを促すので、お正月だからと調子に乗って、言われるままにおかわりしては苦しくなった。お正月なのでいつもより少し上等な洋服を着ていて、ウエストがきゅっとしぼってあったりなんかすると、ますます苦しくて、ふうふう息をしながら、甘酒と黒豆の甘ったるい匂いに満ちた部屋でお年玉をもらって、食べ終わった妹たちと三人でストーブの前を陣取り、新聞紙にはさまっていたおもちゃ屋のチラシを眺めながら、大人が食べ終わって動き出すのと、郵便屋さんが来るのを待った。

 まるで、呪縛のようだ。毎年楽しく食べたお餅を、食べられなくなるなんて。常に自分の人生を形作る一人だった人がいなくなること、その不在の気配は、呪縛のようだ。怖い。動けない。気配じゃうまく、泣けもしない。目を覚ましてほしいとは、もう思わない。目覚めても決して元の祖母には戻れないだろうし。ただ、何もなかったことになればいいと思う。あの日お餅を食べなかったことになればよいと思う。今年のお正月、祖母に「お餅、東京へ持って帰るかね?」と聞かれたとき、「うーんそんならちょっともらって帰るわー」なんて生返事ですませずに、「家にあるの全部持っていく!」と答えればよかった。本当に、そうすればよかった。私がもっともっと、お餅を好きだったならよかった。考えても仕方ないし、馬鹿げているけれど、好きならよかった。もっともっと、食欲旺盛な女だったらよかった。あのときの自分の生返事。気のない返事。申し訳程度にしか持って帰らなかったお餅。

 悲しみは、乗り越えるとか、吹き飛ばすとか、そういうことで解決するものなのだと思っていた。だけど、そうじゃない種類の悲しみもあるのだと、わかった。乗り越える必要性を感じなかったり、吹き飛ばしたくなかったりする悲しみもある。あえて、定着させたい悲しみもある。私は、祖母についての悲しみを、自分の心に定着させよう。たとえば壁に何十年もかけてある絵画のように、長いことベランダにおいてある空っぽの鉢とスコップみたいに。悲しみも、恐怖も、理解できないものは定着させて、自分自身の一部にしていくしかない。自分の部分にすることで、その輪郭を私が担うことができるから、少しは怖気づかなくなる。実家に帰って病院へいったときには、自分のなかの恐怖や悲しみに、怖気づかずに会いたい。定着させるんだ。そのために言葉があるのだ。ほら、こうして書いているうちにも、ずいぶんと落ち着いた。
by papiko-gokko | 2007-11-30 22:12 | Diary | Comments(0)

 「今テレビで東京のイルミネーションが映ってね、それがすごい綺麗だったから、なんとなく電話してみたんよ」と、家に帰るなり母から電話がかかってきた。上京以来、クリスマスの近づくたびに、「東京のイルミネーションがテレビにでとったよ」コールがかかってくる。そして、ぜひとも見に行くようにと言われる。
 この前上の妹が東京へ遊びにくることになったときも、「銀座でスイーツが行列らしいから、銀座へ行ったらいいが」と、よくわからない提案をしてきた。しかも最初、スイーツのことを、フルーティーと言い間違えていたので、銀座のフルーティーってなんだ?とかなり悩んだ。母は妹にも同じことを言っていたらしく、妹が来た日は実際に渋谷でフルーティーなスイーツを買って帰った。その写真を母の携帯に送ったら、「お母さんも東京行きたい!」という返事が帰ってきたのだった。
 母は東京が好きだ。岡山の賑やかな商店街で生まれ育ったのパン屋の娘で、歩いてどんなお店にでも行けるのが当たり前のなかで育ったので、出雲にお嫁にきてすぐのころは、車がなければどこへも行けない田舎の環境に、愕然としたらしい。人の作り出すキラキラした活気が好きなのだ。
 母が東京への憧れを口にするたび、私は得意になる。誰かの抱く憧れの中に自分はいるのだ、という実感が沸くから。「別にー東京だからって大したことないよー」と口では言いながら、そうでしょそうでしょ東京って憧れちゃうでしょと、心の中ではしゃいでいる。母は私に誇りを持たせるのがうまい。
 今度母が遊びにきたときには、まず吉祥寺の街を見せたい。可愛い雑貨屋さんを見たりハモニカ横丁を歩いたら、すごく面白がると思う。それから、渋谷のスクランブル交差点も渡りたい。上野のアメ横にも連れて行きたい。東京タワーの見えるカフェでお茶して、デパ地下でケーキを買って、東京には星がないよね・・とかしみじみ言いながら、煌びやかな電飾に目を奪われつつ家路を辿りたい。
 


 最近、いくつかの考えごとに捕らわれすぎたため、寝不足だ。考察なんて、私にはできないのだな。もうやめよう。私の考察は。誰かの考えたことを身につけるために、本を読もう。電車にながーく乗って眠りたい。電車でなら眠れる気がする。
by papiko-gokko | 2007-11-30 01:24 | Diary | Comments(0)

 人間ごっこ短歌691~700首、アップしました。
 いくつかのきっかけで、頭の中が三十一文字モードになってきて嬉しいのだけど、なぜだか家でパソコンに向かっているときではなく、仕事中にばかり浮かびだすので、仕事に身が入らない。そのたびトイレで携帯にメモしたり、こっそりヤフーメールを立ち上げて下書きで保存したりしている。今、自分が一番恥じらいを捨て力を込めて外側に差し出せるのは、短歌という形式みたいだ。文章だと、いくらでも書ける分いくら書いても言葉が足りていないような気がして、どんどん言葉を補い重ね過ぎてしまったり、逆に必要なことをそぎ落としすぎたりしてしまう。だけど短歌は三十一文字と決められていて、そのなかで言い切れてしまうから好き。潔いのに余韻があって、三十一文字って絶妙な文字数。
by papiko-gokko | 2007-11-29 00:04 | Diary | Comments(0)

 書きたいようなことが、おでこと指先でわだかまっている。何をそんなに難しく考えているのだろう。なんだって大したことないのに。分かりやすく大それた躊躇いに仕立て上げてみたところで、裂け目の角度は変わらないのに。過剰なものは嫌われる。



 私は、肌の乾燥と顎関節症気味の顎と骨盤の歪みと冷え性を気にしながら、日々めんどくさがりつつ眠たがりつつ好きでも嫌いでもない仕事をこなす、24歳の女である。ただそれだけである。それを認めたくないところが、まず、ダメなのだと思う。昨日の日記を書き終ってから布団のなかで、あぁ私は本当に、憧ればかり見つめて自分の現状を認めることなく生きてきたなぁと、改めて思った。そうして眠れなくなった。
 子供のころからよく、注意力散漫だと言われた。私の注意力はいつも、現状じゃない自分の世界へ向けられていたから。じゃあ、今まで私が見てきた私は、記憶に残っている過去の私は、なんだろう。当時の私が見ていた憧れの自分像?私が自分の過去を愛せるのは、あらゆる場面の実像が憧れの映像に上書きされているから?
 私の一番奥にある真っ裸の私は、あまりにいつも自分自身から認められないまま放置されていたから、変化するきっかけもつかめず、小学1年生ごろの私のまま、まったくあのまま保たれっぱなしなのかもしれない。だから未だに甘ったれで我儘で、何でも上手にできないのかもしれない。次々と降り積もる憧れに埋もれ、化石のように守られ続けた実像を、今さら掘り起こしたところで、それをどう愛せば。自尊心がガクガク震える。
 自分の愛し方を考えたとき、自然と親の顔が浮かんでくる。そうだった。私が放置してばかりいた実像を、いつも拾いあげて愛してくれる人がいた。今までずっとそうだった。だから私は、自分で実像を愛することをさぼって憧れに没頭していても、私を損なうことなく生きていくことができたのだと思う。家族も、少ない友も、恋人も、憧れでむくみっぱなしと私といながら、ちゃんと私の実像を見抜いて認めてくれる。なぜそうするのかは、わからない。それがわかれば、私は実像と向かい合えるのだろうか。引きずり通してきた憧れを一旦この手から離して、実像を抱きしめられるだろうか。



 社員が辞めると気が滅入る。自分でも驚くほど滅入る。結婚や出産や転職が理由じゃないだけに。あの人たちが辛いと辞めた職場で、私は今日も働いているんですと、誰にということもなく、主張したくなる。自分のしていることは、当たり前のことであってほしいし、だけども、すごいことでもあってほしいし、辞めてもなんの支障もないことであってほしいし、私にしかできないことであってほししい、無害な空気でありたいし、色彩豊かな花でありたい。
by papiko-gokko | 2007-11-27 21:51 | Diary | Comments(0)

 またひとり、職場で事務員が辞めた。私と別の部署に今年の九月入ったばかりの子で、二週間前ぐらいにいきなり音信不通になったらしい。先日ようやく連絡がとれて、正式に辞めたと聞いた。そういうことをする人ではなさそうだったのだが。どんな事情があったにしろ、そんな辞められ方をしたら、一生懸命に仕事を教えていた人としては、たまったもんじゃないだろう。実際今日はなんとなく元気がなかったし。いくらなんでも音信不通は、許せないと思った。そしてもしそんな自分の行為を本人が責めて苦しんでいるのだとしたら、ますます許せないと思った。そんな不義理を働いたからにはせめて、あっけらかんとしていて欲しい。けろっと別の会社にでも就職して、面白おかしく過ごしていて欲しい。落ち込むなんて許せない。

***

 猛烈な衝動に駆られて、「魔女の宅急便」を見た。あらゆる場面で泣けた。この物語には、私が幼少時代に抱いた憧れのすべてが詰まっているので、このまま大人になってしまいたくないようという思いが押し寄せてきて、二十歳を四年も過ぎたくせに泣けた。少しだけ「天空の城ラピュタ」も見た。この物語にもまた、自分の小学生時代の憧れが詰まっている。過去の憧れに出会うと、どうして泣けてくるのだろう。今の自分が不甲斐ないからか、満足できていないからなのか、子供のころの自分の憧れと別れがたくて、別れてしまうと取り返しのつかない喪失感を味わうことになる気がして、繰り返し思い出しては繋ぎとめている。
 炎天下のなか、毎日飛行石を捜して河原を歩いた夏休み。小学校の裏庭で、竹箒にまたがって空を睨みつけふんばっていたお昼休み。現実をどこまでも巻き込みながらひとつのことを信じ込む困った子供で、親がそれを完全に放任したので、私は朝から晩まで常に夢中で何かになりきっていて、近所のおばちゃんから、「夢があっていいわねぇ」と事あるごとに言われた。そのたび私は心外だと思っていた。これこそが私の現実の姿だというのに、その辺の子供のおままごと遊びと一緒くたにしてくれるなと、大人びた調子で思っていた。子供のころに私には、日常のほうが仮の姿であるという認識があった。チャットやバーチャルゲームにはまりすぎているときの精神状態に、限りなく近いと思う。本当の自分はピーターパンでキキで乱馬でシータでジュディーアボットで秘密のアッコちゃんだと思って暮らしていた。
 美容院で、生まれて初めて美容師さんに自分からつけた注文は、「キキの髪にしてください」だった。不運なことにその美容師さんは魔女の宅急便を知らなかったらしく、どうしたわけかあれよあれよという間に私を男の子みたいな短い髪にしてしまい、私は鏡の前の自分に絶望しながらも、それでもこの場で泣いたらまずいと子供心に思い、「嬉しい、ありがとう」とニコニコしながらお店をでた。そうして車に乗ったとたん、爆発して大号泣したのが、私にとって美容院という場所の最初の思い出だ。人生は思うようにはいかないが笑ってやりすごさなきゃいけないんだ、という、思えばあれが最初の実感だったかもしれない。
 近所のおばちゃん、最近孫ができたとかいう近所のおばちゃん、私は毎日まじめに事務員してます。でも、あのころも今も、私は自分で自分が物足りないと感じるほど自分という器に多くのスタイルの実現を望んでいて、いつも現状じゃない場所に自分の姿を描いていきています。
by papiko-gokko | 2007-11-26 23:24 | Diary | Comments(0)

 恋人も休みの日曜日。一緒に図書館へ行って、それぞれに全然違う本棚で本を選び、帰ってからお互いの借りた本を見せ合うという恒例行事を行い、あとは各自好きなことをして過ごした。私がもたもたしたり話を聞いていなかったりしたことで彼が何度かイライラしたほかは、穏やかな一日だった。
 互いが動かない限り電化製品の幽かな駆動音しかしない部屋の中で、何も壊れる気配はなくて、騒がしい変化の予感もなくて、ふたりで過ごしている時は、外側と内側の境目がはっきりとする。彼は私にとって数少ない内側の人だ。内側の人とふたりでいると、外側に対する恐怖感や孤独感は和らぐ。そのかわり、内側の人になったが故に、お互いのなんてことない溜息にすら傷つく、ほんの小さな咳で不安になる。何も壊れなくて、騒がしい変化もなくて、だけど絶えず空気は敏感に連動し、波打っている。

 明日は会社だ。すっごく面倒くさいけど、心のどこかで安堵もしている。最近、ひとりでぼんやりしていると、死について考えてしまう。祖母のことがあって、今年は今まで生きたなかで最も、死ぬことと生きることの根本ってなんだろうとか、そんなことを、わかりっこないのに繰り返し考えた一年になった。答えなど出るわけがなく、考えれば考えるほど、ただただ怖くなる。恐怖はたいてい夜に訪れ、どんなに怖くなった夜でも、次の朝会社に行くと、その怖さがすっと静まって、楽になる。生きて働く人たちのなかにいると、すごく安心する。なにはともあれ、自分は今生きていて、やらなければならないことがいくらでもあって、明日も明後日もここへ来るのだ、という実感が、私をの精神を安定させてくれる。人は何も、お金が欲しいばかりで、働くわけではないんだな。

 今日は静まった心でありたかったから、UAを聴いている。ぶくぶく真昼の海底で、海藻になでられているイメージ。よいなぁ。
by papiko-gokko | 2007-11-25 23:41 | Diary | Comments(0)

 明日図書館へ行く約束をしたから、今日は先週借りた本を読み終えることに一日の大半を費やした。今回借りた本は、どれもこれもが大当たりだった。恋人も借りている本を眺めながら、「全部がおもしろそうすぎて幸せな供給過多」と言っていた。秋から住み始めた町の図書館は、蔵書のセンスが素晴らしくいいようだ。決して大きな図書館ではないのに、行くたびに、おっと思える本に何冊も出会える。司書さんたちのセンスがよいのか。
 本屋と図書館にいるとき、私は一番私のことに集中できる気がする。別の買い物では、好きな人の気持ちに自分の気持ちを持っていかれてしまうのだ。これはあの子が好きそうな色合いだなぁとか、これを妹にプレゼントしたら喜ぶだろうなぁとか、これ恋人が見たらすごい嫌な顔するだろうなとか、この賑わいを母に見せたら興奮するだろうなぁとか。そんなふうに、自分のなかに存在する好きな誰かの気持ちが、勝手に私の気持ちを追い越し先回りして、私個人の視界がその人の色に染まってしまう。
 だけど、本だけは違う。読みたい本を物色しているとき、私はすっきりと私のことしか考えていない。自分がいま求めているものは何だろうかという問いの答え探しに没頭できる。ちらりと、この本はあの人が読みそうだなぁと思うことはあるけれど、それはまず自分がその本を読みたいか否かをきっちり見極めたあとに浮かんでくることで、本に限っては絶対に、別の誰かの気持ちに自分の気持ちを先回りされたりはしない。
 だから、本屋や図書館にいる時間を、私はとても贅沢なものに感じる。こんなに贅沢に時間をつかえる場所はほかにない、とさえ思う。明日はたっぷり本を選ぼう。あの図書館は、本当にいい。どこか学校の図書室っぽくて、本棚と本棚の間隔が広々としていて、最高にいい。

 今回借りた本は、小説もよかったけれど、それ以上に、短歌の本がすごくよかった。「現代短歌そのこころみ」(著:関川夏央)という本で、斎藤茂吉の死後戦前から現代にかけての短歌史が書かれている。時代背景の描写とともに、そのころに活躍した歌人と作品、そしてその歌人の生い立ちや人となりに至るまでが丁寧に淡々と紹介されており、人と歴史と作品が一つの繋がりをもって頭に入ってきた。これまでも何度か現代短歌の歴史についての本を借りたことはあったのだが、頭のよろしくない私にはどうにも堅苦しすぎてちゃんと読めなかった。しかしこの本は筆者が短歌界の人ではないからか、専門的すぎず客観的で、それでいて不思議と歌人を身近な存在に感じる書き方だったから、これまでぼんやりとしか捕えていなかった短歌の世界の輪郭を、導かれながら自然にくっきりなぞることができた。読み進めながら、短歌はただ作品を読むより、歌人の人生や人となりを知りながら読んだほうがと、楽しめるのだと知った。小説だと、かえってそれが邪魔になったりするのだけれど、短歌はやはり、「私」ありきなんだなぁ。
 戦時中や戦後の歴史についても、改めて知り考えることができた。戦争のころに詠まれた歌の緊迫感や虚無観は、これまでに見聞きしたどんな戦争体験談より、重くリアルに胸に応えた。いつも自分が日常や思い出を詠んでいる短歌という方法で、戦争を読まねばらなない人があったのだということ、それが悲しいし怖いし許せない。歴史の教科書に、戦時中詠まれた短歌をのせたら、写真の何枚乗せるのより、リアルに惨状が伝わるんじゃないかなと思う。すごい迫力だから。
 ・・・とか、あぁ、やっぱりよいこの読書感想文みたいになってしまう・・・だから読書の感想をかくのは苦手なんだ・・・せっかく読んで力いっぱい感動した本を、一気にくだらなくしてしまう。とてもよかったのだ。ぼんやりとしか知らなかった歌人さんの名前もくっきり記憶できて、その人がどんな人生を送ったのかも知ることができて、この本に出会えてよかった。自分も真摯に歌を詠んでいきたいと思った・・あ、また読書感想文的発言、くそうどうしても。古本屋で見つけたら、買いたいけど、そんなには出回っていなさそうだなぁ。手元に置きたいなぁ。

***

 東京事変の「閃光少女」(歌詞)(youtube)が、大好きだ。林檎さんの歌詞の、こういう刹那的な感じにいつも強く惹かれる。この人の書く歌詞の刹那的な感じこそが椎名林檎を好きになった理由といっていいかもしれない。東京事変になってから、音楽が専門的な感じになったので、基本的にポップでキャッチーな口ずさみ心地のよい歌を好む私には難解すぎてついていけなくなってきて、だからアルバムは聴いていないのだが、シングルは東京事変なりにポップでキャッチーな感じにつくってくれているので、私も難なく聴くことができて、どれもあいかわらず大好きだ。東京事変のシングルベストみたいなのがでたら、迷いなく買うつもりでいるのだが、どうなのかな、そんなありふれたことしない人たちなのかな。ありふれた私はもうじき彼らの音楽性に見捨てられるのかな。歌詞、大好きなんだけどなぁ。
by papiko-gokko | 2007-11-24 22:59 | Diary | Comments(0)

新学期隣の席で頬杖をつく横顔に恋がはじまる

上履きに記されている君の名をマジックインキごと記憶する

班ごとの消化酵素の実験で君の唾液をつかった2班

サッカー部補欠の君を探すため遠回りして裏門を出る

友達の好きな男子をなんとなく目で追ってたら気になってきた

コンタクトデビューした夏休み明け君は右手を骨折してた

自転車をわざと隣に停めた日にかぎって早退してしまうとは

「これ違う?」「わぁありがとう」消しゴムをあなためがけて無くす作戦

席替えは斜め後ろの席がいい寝ぐせチェックで始まる朝に

あの人と私を主人公にした漫画を二ページ書き行き詰る

渡さない前提でかくラブレター話したこともないのにタメ語

塾帰りあなたの家を突き止めたベランダいっぱい干された布団

告白をするなら今!と占いの雑誌にあって決意した秋

もうすぐでクリスマスだし急がんと!やたらと急かす友のる私

あの実はずっと前から好きでしたえっとあのそのもしよかったら

「好きな人いるからごめん」せめて目を見ながら言って欲しかったのに

鼻先に星でも落ちてきたのかな全部が白く眩しくぶれて

はじめての失恋というあまりにも揺ぎ無さすぎ泣けない事実

夜ごはん残して中島みゆきかけ親に悟られつつ超える夜

拒絶から一晩明けた教室で君はいつもと同じ横顔

もう二度と話すことなどないのかなもう消しゴムも拾わないかな

占いを試さない日は久し振り君の背中は今日もあるのに

失恋をしたのに好きという事実『りぼん』にはない恋のはじまり

 ある方にきっかけを頂いて、うおぉーっと一気に短歌を詠んだら、久々にすごく楽しくて気持ちよくて、そういえばこれが私の本来の詠み方だ!と思い出した。数打ちゃ当たるじゃないけれど、一体の彫刻を掘るように一首の歌を繰り返し練り直して納得いくものに近づけていくより、カードを並べていくようにどんどん詠んでそのなかから自分のいいと思える歌や詠みたかった歌を見つけるほうが、私はやっていて楽しめるし、納得できる歌に出会いやすい気がする。今度からまたそうしよう。
by papiko-gokko | 2007-11-23 21:49 | Diary | Comments(0)

間違って悪魔と踊る


 泳げない私にとって、波打ち際は世界の行き止まり。寝付きの悪い私にとって、恋人の寝息はふたりの時間の行き止まり。波の音と寝息は、反復の静けさと規則正しさがとてもよく似ていて、私に同じ種類の不安と安心をもたらす。ここからはもう進むことができない、ここから先は自分の力ではどうしようもない世界なのだという感覚は、私を緩ませ安心させる。これ以上何も迷う必要がなくなるから。同時に、もし万が一この行き止まりを強引に突き破ってしまったらどうなるのだろうという想像は、ぞわっと不安を掻き立てる。どうしても、破壊や消滅の印象しか浮かんでこなから。行き止まりがあるから、壊れないでいられる、消えないでいられる。大丈夫、私はどこへも逃げ切れない。

 忘年会出欠表の回覧に×印をしていたら、上司から「絶対でたほうがいいよ!」と言われ、半強制的に〇印に変えさせられた。先日同期の飲み会で酔いすぎたので、しばらく会社関係の飲み会を自粛しようと思っていたのだ。少し前の私なら、上司の強引さに反感を抱き、ものすごく憂鬱になっていたと思う。だけど今日は、笑ってそれを受け入れた。私の出欠に気をとめてくれたことを嬉しいとさえ感じた。あの人のなかで、私もちゃんと社員なんだな、と。
 入社してから、一年間と約十カ月。ある程度安定しているし悪い会社ではないけれど、客観的に見て、社員を大切にしている会社とは言えないと思う。職種によっては病んでいく社員も多く、うちの会社は大丈夫なんだろうかと心配になる。それでも、そんな今の会社の雰囲気に、心がなつき始めている。恐怖の場所から安心の場所へと、変化している。怖いことを考えて眠れなかったり不穏な内容の本を読んで混乱したりした夜の明けた朝、寝不足の目をこすりながら会社のデスクに座り、いつものようにパソコンの電源を入れ帳簿を開くと、自分の日常の正常さを実感して、ほっとしている自分がいる。
 一度心がなついてしまうと、そこからはなかなか簡単に逃げられない。なついて外側への勢いをなくした心が頼れないぶん、確かなきっかけと相当の覚悟が必要になってくる。私はその状態を、望んでいるのかもしれない。簡単に逃れられない場所が欲しくて、簡単には逃がしてくれない人が欲しくて、日々真面目なふりを繰り返し、契約を交わし、約束を守り続けているのかもしれない。離れがたい場所、離れがたい人、忘れがたい時間。
 まるで空中ブランコにのっている気分。あんなに恐怖だったのに、反復を嫌悪したのに、なんとかして別の場所へ飛び移る方法ばかり考えていたのに、気づけばその動きにも素材にも、安心を見出してしまった。不覚。これだから私は、どこへ行っても変われない。
by papiko-gokko | 2007-11-22 22:42 | Diary | Comments(0)

隠れた空は


 昨日私に優しいと言ってくれた同僚に、ある出来事で腹が立ったという話をしたら、今度は「でも、ぱぴこさんが怒ってるのとか、想像できない!」と言われた。彼女は一体、私をどんなイメージで捉えているのだろう。私の本性を知ったら、気絶するかもしれない。彼女に限らず、私は人からよく、怒っているところが想像ができないと言われる。しょっちゅうぷんすか怒っているというのに。家族には気性が激しいと常々言われているというのに。

 家族と恋人以外の人間に、私が歯向かうことはない。よほどのことがあれば歯向かうこともあるかもしれないが、たぶんその場合の私はもう完全に取り乱していて、歯向かうというよりは爆発するという感じになってしまっている。冷静に歯向かうという能力が、私には完全に欠落しているらしい。
 思うにこれは、瞬発力の問題だ。誰かと話していて気持ちのズレを感じても、それを瞬時に言葉にできない。同意や共感に多くの言葉は必要ないけれど、相手と違う思いや考えを伝えるためには、込み入った思考と選ばれた言葉が必要になる。それを会話の中で滞りなく成り立たせるのは、私にとってすごく難しい。感情が受け取った異物感を、瞬時に思考へ到達させ形にして吐き出す瞬発力が、私にはまるっきりない。
 だからいつも、こんな私と会話を続けても張り合いがなくてつまらないだろうなぁと思いながらも、投げ返し方のわからない異物感ボールを手に持って突っ立ったまま、そのボールをしみじみと眺めているようなふりをして、これは素敵なボールだねぇよく飛びそうだねぇなんて、おもしろくもなんともないことを、さも驚きの要素のような口調で述べたりする。瞬発力がないぶん、その場しのぎの無難な相槌は、うまくなってしまった。

 そんな自分の欠落部分を、優しさや穏やかさと受け取ってくれる人がいると、胸が痛む。それは私の思う優しさや穏やかさと、まったくかけ離れているから。しかし自分の本性を人に伝えたところで誰にもなんの得にもならないし、こうして私も人を騙しているけれど、そのぶん騙されてるんだろうと思えば、いくらか気楽に笑い合えるから、そう思うことにしている。そういえば、怒っているの想像できないともよく言われるが、一旦怒らせてしまったら怖そう、ともたまに言われるのだった。騙しているように感じているのは自分だけで、本当は、ちゃんと見破られている。何も見破れていないのは私。
by papiko-gokko | 2007-11-21 21:17 | Comments(0)